Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

先延ばしにしなくても良い

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「それ」は自分が掴み取るものじゃなく、
訪れてくるものなんですぅー。

なんてねー。ゆーてるわけなんですけど、

おはようございます。
タクさんです。

皆さまいかがお過ごしでしょうか?

「それ」「目覚め」というのは、
決して自分が掴み取るもんじゃないんですね。
どちらかというと、「目覚め」の方から訪れてくれるんです。

自分と目覚めが溶け合ってくるっていうかね。

ま、それはそうなんですけど、
そう聞くとなんだか壮大な良い感じの何かが自分を包み込んでくる。
みたいな感じに感じるかもしれませんけどね。

そういう感じでもないんですよねー。

実はもう、今、すでに包み込まれてるんです。

 

んなこと言われても、

うっそーん。
全然そんな感じしないんですけどー。
って思われるかもしれません。

なんだか不安感はあるし、
退屈さもあるし、
命そのもの!って聞くけどそんな感じもしないし、
完璧であり、愛であるって感じもしないしー。

これが「それ」であるはずがなーい!

ってねー。
思っちゃいますよね。

もっと自分はいい感じになりたいし、
不安に苛まれるより、
口元に笑みを浮かべながら至福に浸っていたいですしねぇ〜。

今の目の前の現実と全然違うやんけっ!

ってね。
思われる方もおられるかも知れません。

でも、もうすでに「それ」そのものなんです。
「それ」は、いつかやってくるもんやなくてねー。
今この場で起こってるんです。
「これが「それ」であるはずがなーい!」って思いがあるなら
それもまた今ここで起こっている一部なんですよね。

そして、紛れもなくそれは完璧であり、至福なんです。

思いも感情も今起こっているそれそのものであり、
それは全体性と離れてはいないんですけど、
それを一部としてみた場合には、
言葉や、思いや、
ある種の体験や記憶のワンシーンになったりするわけですが、
「それ」は今ある全体性そのもののことですので、
言葉の中や思いの中にあるわけじゃないんですよね。

そして、思いや感情は常に起こっては消えていきますが、
その全てを排除した後に、「それ」が訪れてくれるというわけでもありません。

もうそのまんま、見たままがすでに「それ」ですのでねー。

何に思い悩んでようが、
焦ってようが、
思考に取り込まれてようが、もうすでに「それそのもの」ですし、
そうは思えないという思いもまた、「それそのもの」なんです。

だから受け入れちゃえばそれでいいんですよね。

んなわけあるかいっ!
って「それそのもの」に抵抗している間は、
「それそのもの」を先延ばしにしてるんです。

実際のところ「それ」しかありませんので、
それの至福と完璧さに溶け込むことは避けられないんですけどね。

「それ」はいつかやってくるものだ!
と期待している間だけ、先延ばしにしてるんです。

瞑想したり、修行したり、スピリチュアルのワークを通して、
いつかくると期待してるそれは、
その期待がある限り、ずっとその期待を見続ける事になりますのでね。
先延ばししとる事にもなるんですよね。

もちろん抱えきれないと感じる思いがあるのなら、
先にそちらを癒してあげるのも良いんですけどね。

癒しの旅にはゴールはありません。
ゴールを目指すと、癒さなきゃいけないいろんな事がどんどん出てきますのでねー。

いろんな思いがあってもええやん!
不安があってもええやん!
ってなって初めて癒しの旅が終わりますので。。。

自分の思考や人生、なにかしらの制度や周りの誰か?
それもぜーんぶイメージなんですけど、そのイメージと戦っている間は、
勝ち負けのイメージがそこに付きまといます。

実際は、何かと戦わなくて良いし、戦わなくて良いから負けることもないんですけどねー。

ただ、それは無防備でいるということでもありません。
降りかかる火の粉を払うのに執着しなくてもいいってことでしてね。

頑張って、
どんな状況やどんな悪口を言う人だって、受け入れ続けなきゃ!
ってこととも全然違うんです。

火の粉が飛んできたら、勝手に振り払おうとしてくれますので、
そうすりゃいいし、
なんか臭かったらウワッ!って自然と離れようとするのと同じで、
やな人がいたなら、離れりゃ良いんです。

クサイのを延々と我慢なんてしなくて良いんです。

無防備でいるというよりは、淡々と対処すりゃあ良いんですよねー。

なーんだ。
じゃあ、今まで通りであって、
別段、何もすることないじゃんか!
ってなりますが、その通りなんです。

何もしないようにしなくても良いし、何もしなくても良いんです。

今を認めたくなーいって思っててもまたそれで良くて、
そういう思いが起こってるんだねー。
「イイよー起こってても」って愛でてあげると、

その思いが自分の思いじゃなく、単なる動きとして見えてきます。

見れるとしたら、それは自分じゃいんだー。ってなってきます。

感情も記憶も単なる動きです。

そしてそれもあってイイよーってしてあげると、単に起こっては消えていきます。
同時に自分だ!という思いも、単に起こっている一つの思考に過ぎない事が見えた時、分離のパワーは行き場を失っていくんですよねん。

不足感、不信、足りないという思い。
これらはぜーんぶ単なる分離の観念からくる解釈に過ぎなかったんです。

そんな思いさえもあってイイよーって見てあげると、
単に起こっては消えていく一つの動きにしか過ぎない事が見えてきますのでね。

分離のなさの全体性しかない事は、最初っから当たり前だったことが明らかになります。
そして、それは今までも常々感じていたし、知っていたという事も思い出すんです。

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