はじめに
ほーい。
おはようございます。
タクさんです。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者も遂にはほろびぬ、偏ひとへに風の前の塵におなじ。
ゆーてねー。
小学校の頃覚えたりしましたよねー。
皆さんもされましたでしょうか?
平家物語の冒頭でございます。
平家物語ってね。
なんていうか、隆盛を極めた人たちが次々に滅んでいく姿が描かれております。
平氏もそうですし、木曾義仲も将軍になった後、頼朝に討たれています。
そして、義経も大活躍ののちに、討たれます。
平家物語とは、滅びの物語、滅びの美学のような物語なんです。
でね。
その冒頭に、諸行無常という言葉が使われておりますのでね。
どうにも、諸行無常という言葉に、どこかもの哀しさを感じたりする方もおられるかもしれません。
日本ではこの平家物語があまりにも有名なので、
ちょっと、諸行無常という言葉に、色がついている。
なーんてね。
そんなふうに思ったりします。
あらゆることは、常ではない
ですがね。
諸行無常というのは、そもそも、栄華を極めてもいずれ滅びるといった意味ではありません。
ただたんに、あらゆることは、常ではないよねー。
という意味です。
この常(つね)とはどういうことかというと、不変のもの・ありふれたものといったような意味です。
平常とか常識とか、通常とか、そういった言葉に使われるものなんです。
実はね。僕らってこの常(つね)のものしか理解できないという習性を持っているんです。
常(つね)に変換しないと理解できない
つまりどういうことかというと、
僕らは、ありとあらゆることを常(つね)に変換しないと理解できないというわけです。
つまりどういうこと?
という問いがねー。
まさに流動的なものを常(つね)に変換しようとすることなんですねー。
ちょっとややこしいかもしれませんね。
言い換えると、ずーっと流動しているもの。
これを僕らは捉えることができないということです。
じゃあ、流動しているものをどうやって捉えているのか?
というと、流動しているものを、イメージの中で細切れにして、
その細切れごとに、レッテルを貼って、そのレッテルの意味を捉える。
みたいなね。
そういうことをしているわけです。
原因と結果
うん。まだややこしいですね。
例を挙げるとすると、
風ってあるじゃないですか。
これってね。まるで名詞のように使っていたりしますけど、
風というのはあくまでも現象ですよね。
ですが、現象はずーっと変化しちゃうので、この変化を風と名付けて固定化しているわけです。
そして、風が強いとか弱いってね。
なんていうか、固定化したものとして表現しているんですねー。
原因と結果も一緒です。
何かしらの原因が結果となった。
この因果として僕らは流動する動きに区切りをつけて、
因果として掴み取るわけです。
何かをしたからこうなった。これってホントかな?
何かをしたから、こうなった。といった捉え方ですねー。
でもね。実は何かをしたからこうなったっていうのは、部分的なものに過ぎませんのでね。
正確じゃないんですよね。
ホントは、何をしたからこうなったわけでもないんです。
そもそも、原因と結果に区切ること自体が無理があるんです。
なぜなら、ありとあらゆることは常(つね)ではないからなんです。
うん。めっちゃややこしいですね。
そうなんです。
常(つね)ではないものを僕らは掴み取ることができないから、この話はややこしく感じてしまうわけです。
何がなんでも掴み取ろうとするから、ややこしくなる。
というわけですね。
そして僕らの苦しみはすべて、掴み取った概念と解釈によって起こっているというわけなんです。
諸行無常
お釈迦さんが悟ったって言いますが、何を悟ったのか?といいますと、
「あっそっかー!諸行て無常なんだー!」
ということを悟ったんです。
知らんけど。
諸行とはありとあらゆることです。
無常とは、常(つね)ではないということになります。
つまり、ありとあらゆることって、常じゃないんだー!
ということを知ったということになります。
知るということを、僕らは普段、何かを常(つね)に変換することで知ったこととするんですけどね。
それって、知ったことじゃないんだー!ということを知るというわけですね。
知識ではなく智恵である。みたいなね。
うん。
そろそろ、訳がわからん!が溜まりまくってきましたよね。
この辺のことはまた、言葉を変えて表現してみたいと思いますが、
訳がわからんなら、わからんでいいじゃないか!
ということでね。
わからんままに在ってみるのもまた、オツなもんです。
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