記憶は、物語をものすごーく説得力のあるものに仕立て上げますよねー。
「私は過去こういうことがあって、それが原因でこんな辛いことになってるんです。」
さて、どうしたら良いんでしょう?
みたいにねー。
でも、それだって、そういう記憶とストーリーが起こってるだけなんですよねー。
単に見てあげたらええねんでーっていうのは、
まるで人ごとのように、
「はー。物語が起こってるんやなあーっ」てな感じで手放してあげる感じです。
起こることが勝手に起こりますし、
もしコントロールできるんやとしたら、
「さてどうしようか?」と悩む必要もないわけで、
コントロールできないもんを、どうにかできるはずだと思ってる誤解がそう行った悩みを引き起こしておるわけですね。
起こってることにね。特に詮索をすることもなく
「おお!起こってるんやねぇー」くらいな感じで見てあげると、消えていきますんで。
でねー。僕らって起こってることと思考がまたごっちゃになってたりするわけですが、これもまた別ですのでねー。
思考は脚色なわけで、思考のイメージ通りのことが起こってるわけでもないんですよね。
起こってることは無色透明でして、そこには正しいも誤りもないんです。
完全な調和、至福、愛ってこの無色透明さに宿っておるんですよねー。
思考で判断しちゃうと、この何にもなさは味気のないモノ、
あまりにもくだらないもの、って感じに見えちゃいますけどね。
だから思い、思考の中に探し求めちゃったりするワケですが、
思考の中にある調和は混沌とセットになっておりますし、
至福も不幸とセットになってたり、
愛も愛の不在とセットになっているわけで、どっかに条件がついちゃうんですよねん。
無色透明なそれはそういった条件付きのモノじゃないんです。
味気がないから、どうにも違う場所を探すんですが、この味気がないというのも誤解なんですよね。
はたまた、無色透明さってあまりにも無防備に見えたりするんですが、
大丈夫なんです。安心して乗っかってたら良いんです。
この安心さへの目覚めがね。もう思考武装の必要性のなさを明らかにしてくれるわけです。
思考武装は今までも何も守ってさえいなかったんですよねー。
もちろん不安感や恐怖感から解放されるってわけじゃないんですけどね。
どちらかというと、そういうのが起こってもええやんって許されるんです。
するといろんな起こってることもそれそのものからワクワクと湧き上がってるんやねー。って見えてきますんでね。
あってええねんやん!
ってなりますと、なんていうか不安も恐怖も可愛く起こっとるワケやん!
健気やん!ってことなんですよねん。
全力で怖がったらそれでええんやーん。ノリノリに乗っかったらええんやん!
ってことなんですよねー。
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