Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

好き嫌いと罪悪感

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好き嫌いは普通に起こるもんですのであまり気にしなくていいと思うんですよねー。

もちろん全体的にみたら全てはひとつながりですけどね。
それを個人的な解釈に持ち込んで
「全ては一つなはずなのに、まだまだ受け入れられない嫌いなもんがある!」
って思ったとしてもね。

そりゃ、しゃーないんですよねん。
そういうもんは起こるもんですからねー。

自分がいる上空の空は常に青空であって欲しい!と願っても無理なのと一緒でね。
曇る時もあれば雨も降りますし。

 

それと同じように、意味なく好き嫌いは起こるもんなんです。
これは、分子同士が結合したりするのと同じで、
共感されるとひっつきますし、されないと離れるだけの話で、
そこに別に意味はないわけです。

酸素は水素と結合して水になるけど、酸素が結合しない分子もあるわけです。
ここに意味はないのと同じようなもんです。

ただ、ずっと同じ分子のままってわけでもなく、
僕らは常に変化していますから、共感される時が来たらそうなるわけです。

好き嫌いの悩みって結構あると思うんですよね。

好きなのに好かれない!といった悩みはもしかしたら、単なる執着か依存かもしれません。
まずは自分の中の依存性を見てみるといいかもですし、

好きであるべきなのに実は嫌いなのかも。
といった悩みもあったりしますよね。

その場合は、
あ、わし、嫌いなんや!
ってまず知ってみるのもいいと思うんです。

例えば、その嫌いな相手が親であったりする場合もあるかもしれません。

だからって、罪悪感を持つ必要もないわけです。

好き嫌いに、良い悪いはないですからね。

嫌いなら距離をおけば良いだけです。

一緒にいるべきだ!
好きであるべきだ!

といった思いがあれば、その「〜べき」が苦を生み出します。

好きになろうとしてうまく行けばその苦は解消するかもしれませんが、
そうならないんだったら、その「〜べき」を捨ててしまったら良いわけですが、

まずはそれを捨てようとするよりは、そういうのがあるのかもしれないなぁー。
どんな「〜べき」があるんやろう??
ってね。
見てみると、良いかもしれません。

捨てよう!とすればするほど、「捨てるべき!」が出て来てしまいますのでね。
それよか、
この「〜べき」はホントに絶対的に必要なもんなのか?
単なる思い込みかもしれないぞ??

といった可能性をちょっと見てみますとね。
「〜べき」の意味のなさが見えてくるんです。

すると、べつに「〜べき」じゃなくても良いやん。気楽にいこうや!
といった可能性も見えてくるんですよね。

はぁー。なんでこんな無意味な「〜べき」にこだわってたんやろう?
このこだわりがしんどかっただけやったんやん。
この「〜べき」は勝手に自分で作って、それで苦しんでたなんて、
ひとり相撲やーん。

てねー。
明らかになってくるわけでございます。

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