Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

そりゃあ、良いこともあるし悪いことも起こりますがな。

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まー生きてりゃ、良いこともあったりやなこともあったりしますよねー。

でね。
自分もまた、良い自分でありたいけれど、
やな自分もあったりするもんです。

良い自分でありたい!っていう思いが強けりゃ強いほど、
やな自分は重くのしかかってきます。

ま、とはいっても、ここで言ってる良いと悪いは、
好き嫌いと同様のものなんですけどねー。

実際に良いと悪いがあるわけではありません。
単に好き嫌いがあるだけです。
つまり起こることへの好き嫌いがあるということになります。

好き嫌いは、方向性は逆のように見えて、実際は同じ方向に向かって働いています。
その方向とは、ギュッと掴んでしまうチカラのようなものです。
言い換えると、こだわりとも言えるかもですし、執着とも言えるかもしれません。

好きが強いほど、嫌いも色濃くなり、嫌いが強いほど好きも色濃くなると言った感じですねー。
またそこに、記憶や、記憶から発展した物語なんかも加わって、すごく複雑な形になってることも多いんです。

そして、好きか嫌いかのどちらかを掴んだ時点でそこに主体となる自分という観念が加わるんですね。

 

この自分という観念は、なんて言うか数式における代数のようなものです。

代数とは特定の数の代わりに仮に入れられる記号の事ですが、自分という観念も何か特定の世界観を掴み取るために仮で入れられた観念なわけですね。

ただまぁ、僕らは言われるまでもなく、自分という存在はありますよねぇ。
あんた誰?と聞かれた時に、ワシはワシやで!
って感じる存在です。
名前や性別や肩書きを加える以前に、あなたはあなただし、
決してあなたは男や女の一言でくくれるものじゃないし、名前で括られるものでもありませんよね。

なんでもないもの。
それが本来の自分の正体です。
なんでもないものとは、どんなくくりにも当てはめられないものと言うことでもあります。
そして同時に何にでも当てはめることが出来ちゃう便利なものでもあるわけですね。

例えると空気とか水のようなものに近いかもしれません。
形あるものの中にするりと入り込みそれを満たしますが、
例えばコップを湖の中に沈めると、コップの中に水が満たされますが、
水はコップではない。
水はコップというくくりには当てはめられないですよね。
みたいな感じです。

なので、いろんなものに自分がするりと当てはめられる(ように見える)んです。
あてはめようと意識しなくても、自然にするりと自分が入り込むんですね。

数式で言うところの代数は、後にその本来の数字が明らかになったり、また、他の代数との相対的な関連性が明らかになったりするわけですが、「自分」という代数には答えはありません。
各々の式に対する全ての答えになりうると同時に、一つの答えだけに限定されることも無いんですよねー。

さて、「自分」という観念の話はこの辺にしておいて、
良い自分と嫌な自分についての話に戻しますね。

良い自分っていうのは、まったくもって問題はないと思うんです。
僕らがツライなーって感じるのは、やな自分がある時ですよね。

それが罪悪感となったり、そのやな部分に振り回されていると感じている時、
あー、これが無ければどんなに楽か。。。
と思ったりするもんですもんね。

じゃあ、どうすればいいのか、、、。
という話なんですが、

一番手っ取り早いのは、この嫌な部分、嫌な要素を取り除いちゃう。
または嫌な部分を変えちゃう。という方法ですよね。

自分を変えるために習慣を変えるとか、嫌な状況を無くしちゃうとかいった方法です。

大体、よくいろんなところで紹介されているほとんどのメソッドはこのような方法になってると思うんです。
違うのは、状況の方を変えるか?自分の方を変えるか?の違いだけでね。

状況の方を変えるのは、もし変えられるのなら結構手早く変えられますが、
どうしても変えられない場合もありますよね。

それに比べて、自分を変えるのは、どうしても変えられない場合という障害はありませんが、
合う方法と合わない方法があるのと、どうしても根強い思いについては時間がかかる場合もあります。

ただどちらも、好き嫌いに対しての対症療法になっちゃいますので、
違うパターンの好き嫌いが出てきた場合には役に立たなかったりもするんですよね。

だったら、好き嫌い自体に対する強い執着を弱める。
好き嫌い自体をなんとかしたらいいんじゃないか!
って考えられたりもするんですが、
そこへの入り口としては、その嫌いが起こってても、イイじゃん
嫌いがあってもいいじゃん♪
って、認めてあげることが入り口になるんですよねー。

ただし、あってもいいじゃん♪という受け入れをしようと頑張れば頑張るほど、
その頑張りが「あってはならない!」という思いも同時に強化しちゃうといったジレンマもあったりするんです。

はたまた、受け入れられる強い自分を作ろうとすればするほど、
嫌な面に直面するたびに、今まで頑張ってきた「強い自分を作ろう活動」が無駄だったように思えたりして、落胆したりねー。

なので、何はともあれ、
「私って、、、」
「僕って、、、」

「エライよねぇ〜」
「ちゃんと頑張ってるよねー」

ってね。
愛でてあげる必要があるわけですが、
それも結構、自分でやるのは難しかったりすることもあるかもしれませんからねー。

そんな時は、僕もゆーてあげます。
「あんたっ!!エライでっ!!」
「詳しいことはわからんけど、エライで!」
ってねー。

あなたも僕と一緒に、ゆーてあげたらいいんです。
無責任にまずは「エライで!」ってゆーてあげるんです。

嫌いな自分を無責任に愛でてあげられると、
その中にある「自分の優しさ」が姿を現してきてくれます。
すると、好き嫌いは無くならないかもしれませんが、
それは、良いでも悪いでもないものになるんです。

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