Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

そもそもなんで我々はこんなことしてんの?

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おっはよーございます。
きょうはいただいた質問をもとに書いてみたいと思います。

 

質問ここから↓
タクさん、いつも更新ありがとうございます!
毎朝日課のように読ませていただいてます。

これまた自我ちゃんの結論付けたいエネルギーだと思うのですが、

ノンデュアリティの人たちが言っていること、また「それ」ちゃんの事、全てコンセプト、、などなど知的理解としてはわかるような気がしますが、

そもそもなんで我々こんなことしてんの?というのがわからない、そこに何か目的を持ちたい願望、我々がこの二元の世界を個人として感じ、あーだこーだと生きる意味を知りたくなってしまいます。全体ちゃんはただあるだけ、、なんでしょうけど、なんであんの?のみたく。

全体の次元シフトをして愛のパワーん拡大させて宇宙になんらかの形で貢献してる、みたいな落とし所があるとほっとするんですけど(笑)。

謎の質問かと思いますが、こんなような質問も多いかと思うのでご意見伺いたいです。
↑質問ココまで

質問ありがとうございます。
>そもそもなんで我々こんなことしてんの?
>なんであんの?
その疑問。よくわかります。
普通は、そう思いますよね。

まず、なんでこんなことしてんの?なんで?
の答えについては、

それに何の意味もないんですよね。
ホント、意味ないんですよ。

意味がないので理由もないんです。
なので、ただ起こってるだけとか言われてるわけなんですよね。

さて、それじゃあ納得いきませんよね!
ココです!ココが注目点です!
この納得のいかなさが、探究のエネルギー。
すなわち何かを探すエネルギーなんですよね。

なーんにもないところで、ただその探究が起こっているんです。
そして、この探究さんを自分だと定義づけてたりするんですよね。

探究とは読んで字の通り
探し(さがし)、究(きわめる)ことです。
これ以上ないところまで(きわめるまで)探し続けるエネルギー。
それが探究のエネルギーだというわけですね。

この定義上では、物事にはすべて答えがあるという前提が必要です。
じゃないと探せないからね。

なので、自然と疑問を持ち、それを解消しようとするんです。

これが大前提になってるんですよね。

そして、ここで言っているのは、
その全てには答えがあるという大前提は
その探究の中でだけ起こっているだけの現象にすぎませんよ。
という事なんです。

この大前提は大正義じゃないんです。
単なるオママゴトのルールみたいなもんなんです。

このオママゴトをしている限りは、
すべてに意味や理由がないと成り立たないんですね。

なぜなら、ルールとして、
あらゆることに原因と結果があり、
意味がある。

というオママゴトのルールがあるからなんです。

さて、このオママゴト上では、
どんな答えもでっちあげられます。

ですが、探しきわめるこのオママゴト上では、決して終着点は訪れないんですね。

仮に
「全体の次元シフトをして愛のパワーを拡大させて宇宙になんらかの形で貢献してる」
という答えを一旦は信じてみたとしても、

次元をシフトさせた次は?
この先に何が待ってるの?
いつこの貢献の結果が現れるの?
私の愛のパワーはどこまで拡大するの?
まだ、現実は充分じゃない。

といったような疑問点が現れてきます。

どうにかして落としどころがほしいという思いは、
どこまでいっても解決されることは無いんですよね。

それが、このオママゴトのルールだからです。

ちなみに、このルールが良いとか悪いという話をしてるわけじゃありません。
ただ、そういったルールはただのルールであって真理じゃないよね。
ということなんですよね。

このルールを絶対無二な真実なんだと思い込むことで苦が生じたりしちゃうよね。
といった話なんです。

■■■

さて、ちょっとこれだけだと、まだもしかしたら納得いかーん!って思いもあるかもしれません。
確かに、「それ」からの表現だったらそうなのかもしれないけど、
もうちょっと歩み寄った形で答えてよ!
みたいなね。

なので、
ちょっと勝手なタクさんの仮説として書いてみたいと思います。

多分、こういった人生の意味探しみたいなことをしてるのって、地球上で人間だけなんじゃないでしょうかね?

なんで人間だけ?と言いますと、
それって、もしかしたら、とても複雑化した言葉というツールを持ってるからなんじゃなかろうか?
と思うんですよ。

思考のほとんどの部分はこの言葉で成り立っていて、その言葉であらゆる物語を作り上げ、
それにがんじがらめになっちゃってるのではなかろうか?
みたいなね。

探究のエネルギーって、退屈さには耐えられないんですよね。
なぜなら、探し求める動きそのものだからです。
止まれないんですね。

なので、ほんの少しの合間にも頭の中を言葉で埋めようとしたりするんですよね。

人が混乱しているほとんどの原因はこの退屈さにあると思うんです。
もちろんすべてではないですけどね。

さて、この探究というのは、どこから生まれているか?
というと、
元々は自己防衛本能みたいなものなのかもしれません。

これは自分の身体を守ろうとする本能みたいなもんですね。
そっから感情とか感覚とかが生じて、

ココに、言葉が加わることにより、探究のエネルギーがものすごく大きくなってるんとちゃうんか?

なんか、そんな風に思ってます。

では、この探究は何を探しているのか?
といいますと、
それは、落としどころ。
つまり、安心。平安。至福、幸せ。
それを探し続けてるんですよね。

この安心、平安は元々の何にもない「それ」のことを
安心とか平安とか至福、幸せ。みたいなものに置き換えていて、
それを探しているんですよね。

探究により「それ」を見失っているわけですが、
その失った何かを探究によって探そうとしている。
みたいなね。

そんな矛盾に首を突っ込んでいるんですよね。

さて、もう一つの探究の性質として、
このように生まれた探究のエネルギーの根っこには何があるのか?
と言いますと、
そこには
「より良くしたい」
という思いのカタマリのようなものがあるように感じています。

この思いがね、
素晴らしい共感をうんだり、
また逆に、意見の対立を生んだり、

また時には、妙な歪みを生んだりしてるんですよね。

歪みってなんやねんって話ですが、

例えば、
この思い「より良くしたい」を大事にしたいがために
心の奥にしまい込んだりもするんですよね。

「より良く」がいつしか、
人と比べることになってしまったり、
上手く生きる、より上手く生きる。みたいに変わってきたりしてね。
それが上手くいかないから、
その根っこの思いが傷つかないように、
奥にしまい込んじゃったりして、
無いことにしてしまっていたり、

はたまた、
人をコケ落とすことによって
自分はその人よりも上にいるんだ。
という幻想を作り出して悦に入ったりしてね。

たまに、
エネルギーバンパイアってなんですか?
とか、
批判とか悪口言って喜んでいる人って何ですか?
この人からもたらされる怒りも自分のモノなんでしょうか?
みたいな質問を貰うこともあります。

ここでは、あまり多く書きませんが、
たしかに批判をしてくる人っていますよね。批判が趣味みたいな人。
建設的な意見を交わそうとしているパターンもあるかもしれませんが、
それはより良いが素直に表れているだけなので問題ありません。

ですが、しつこくただコケ落としてるだけの人って、
大体、自分の中の「より良くしたい思い」がいつしか損なわれてしまって、
その傷を人をコケ落とすことによって何とか保とうとしてるパターンじゃないですかね。

劣等感みたいなもんがこじれてる感じですね。

こういった劣等感を埋める材料を他人に求めたとしても、
それは一向に埋められることって無いんですよね。
なので、延々と埋められる他人を探し続けて余計に惨めな劣等感が大きくなる。
みたいなことを繰り返したりするんですが、
それも他人に向けるからややこしくなってるんですよね。

ま、自分がそういう風になってるときは、その劣等感を他人に向けるのではなく、
まず自分の中の「より良くしたい」を見つけ出してあげて
明らかにしてあげて、
そして
しっかりと抱きしめてあげたらいいですし、

あなたじゃない誰かがそうやって自分の劣等感を埋めるために、
なんとか人をコケ落とそうと近づいてくる場合は、
なるべく近づかないようにすればいいと思います。キモイですしね。

勝手にやってるなら相手にしなきゃいいんです。
メンドクサイですしね。無視が一番です。

そやって、常に弱者や攻撃相手を探すことによって、
何とか自分の弱さを覆い隠そうとするこじれたパターンもあったりするんですよね。

それはあなたの怒りなのかどうかについては、誰のものでもありません。
それも自分のモノなのか?と自分を責めたり、
この自分がいるという勘違いを解消すべきなのか?
とか考える前に、

まず、
そうやってコケ落としてるやつ。
そいつがキモイのであって、
あなたに非があるのではない。
そこは堂々として、
颯爽と華麗にスルーしてやりゃ良いと思いますけどね。

そやってスッキリしてから、
あとは、あなたはあなたの面倒をみればいいと思います。

自分がいるという誤解を解くみたいな話もその後にすりゃ良いですしね。


おっと、なんか違う質問の話になっちゃいましたが、
少し話を戻しまして、、、


ま、いずれにしても
探究はいつしか、そうやって、

ときに素晴らしかったり、
ときにややこしかったり、
ときにこじらせたりと、
いろんなパターンの個人という概念を生み出していってるんですよね。
これらすべては本来は良いとか悪いとかの判断もなく
ミラクルとしか言いようがないんですが、

そんな様々なエネルギーがぐるぐると回り続けておるんです。
見かけでね。

もちろん、以上のパターンなんてほんの一部でしかなく、
それ以外にも無数の原因と結果と個々人のかかわりなどが複雑に絡まりあって
とても言葉で言い尽くせないほどの沢山の原因と理由と結果が無限にあるんですけどね。

何かを欲するのも、
それを手に入れたときに、
その欲求が消える瞬間があるんですよね。
欲しかったものという欲求の行き場がなくなるからね。

その瞬間が気持ちいいから、より何かを欲してしまったりね。

ま、いろいろと理由があるにせよ、
元々はただ、単純に「より良くしたい」があるだけとちゃうんか?
ということなんです。

結局、
探究の根っこには「より良くしたい」があって、
延々と、平安や幸せ、安心みたいなものを追い続けている。

それが探究のエネルギーなんですよね。

■■■

とまあ、ひとつ仮説を書いてみましたが、
この仮説を信じる必要は全くありません。

どんな話も、誰の話しも、自分に何か引っかかるところだけ受けとりゃいいですし、
また話は信じたりせずに、それをヒントに自身で確かめてみる材料にするのが良いと思います。

なにかしらの落としどころを見つけるために、
あたらしい説、より完璧に思える物語探しをするのではなく、

その落としどころを欲する衝動の奥にあるもの。
自分という存在の根っこにあるもの。
「より良くしたい」みたいなやつ
を探してみるのをおススメします。

この「より良くしたい」は、
愛(共感)だと表現されてても別に良いんですけど、
それだと、その認識が、いつしか愛(共感)探しにかわってきて、
その愛(共感)探しが、愛(共感)できない何かを浮きだたせてきたり、
と、ややこしくなったりする場合もあります。

いずれにせよ、単純に探究の奥には
「より良くしたい」があって、
その働きは、「それ」である平安や至福を求めているだけなんだ。
そして、それはもしかしたら「探すから見失ってる」んじゃなかろうか?
と疑ってみたら良いと思います。

いずれにせよ、
本来は、ホントに
なーんもありません。

なーんもないから、なーんもわかる必要もありません。

有るように見えるその探究のエネルギーも
単純に
なんもない中のほんのひとかけらの中で、
見かけ上だけで、なんらかの「わかりたい」がただ起こっているだけなんですね。

単純にそのエネルギーをただ見るだけ。
そのまんまにみるだけで、

それを見る者と見られるもの。

外側と内側が溶け合い出し、

本来のなんにもないに戻ってくるんです。

何にもない中で、「わかりたい」があるときだけ、
そのかけらの中でだけ、
時間が生まれ、
世界が生まれ、
生死がおこっているように見えているんです。

判断を通すと、素晴らしかったり、
ややこしかったりしますが、

本来は良いも悪いもなく、
何にもない中で、ただ何かが起こっています。
このことは素晴らしくミラクルなんですが、

もう、言い出すときりがないので、この辺で今日は終わりにしておきます。

質問の答えと言うよりは、長々としたいつもの話になりましたが、
また質問があれば何なりとどうぞ―という事で、

また明日、お会いしましょー!
それではー!

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