Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

幸せって結局のところ、不幸がないということなんやね。

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空は青く晴れ渡り
緑の萌える公園のベンチに座り静かに佇み
柔らかい風が頬を撫で、
鳥のさえずりに耳をすます。

静かや、、、心地よい。
これこそ至福!幸せっちゅーもんでっせ!

なんかモノや地位みたいなのを手に入れることで得る幸せってのは
常に失う不安がどこかにあるもんですが、

僕の思う幸せってのは、このなーんもないに落ち着くこと。
これや!と思うんですよね。

これは、幸せを手に入れるというプロセスとは逆で、
単なる不幸が無いということです。

人はなんやかやと思い巡らすことで、
なーんもないを見失い、その結果落ち着きも失ってしまうんです。

なので幸せのプロセスは、まず、落ち着いて、
そんでもって、なーんもないに溶けてくことなんですよねん。

辛い修行も、教祖への帰依も、スピリチュアルな知識も必要ないわけです。

思い巡らす思考が、落ち着きのなさ。
アタフタさんです。

知りたいが分からないを生み、
欲しいが、足りないを生み、
手に入れたいが、失うを生み、
ちゃんとしなきゃ!が罪悪感を生み、
そして
幸せになりたいが、不幸を生み、
生きたいが死を生み出します。

けどあるのは、このなーんもない「それ」だけなんです。

なーんもないの中で、単になんかしたい!
をやってるだけなわけですが、
なんかしたい!に疲れた時に、なーんもないを忘れちゃっていると、
どうしたらこの迷いを解決できるのか?
と彷徨い、探求が続くんですよね

あ、そうそう
なーんもないは「なにもしない」とは違います。

よーし!
なーんもないに落ち着くぞー!
寝転がってじっとしてたらいいのかな?
んー。。。
ヒマやな。
もちょっと我慢するか、、、、
ちょ、、、、これ、、、、本当に合ってるのかな?
これが、落ち着きなんか???

とかね。
これだと、
めっちゃ思いわずらわせて、落ち着きを失ってしまってますからね。

あんまり禅のこと知らないんですけど、
禅でいうところの三昧みたいな感じですかね。

バリバリと仕事やっててもなーんもないですし、
満員電車に揺られててもなーんもないんです。

でも三昧と言ったら、目の前のことに成りきる!とか言ったりしますよね。
この、成り切る!集中するともちょっとニュアンスが違う感じがします。

成りきろうが、どうだろうが、
なーんもないは最初っからなーんもないんですからね。
成りきろうとする誰かもいてないんですよね。

成りきるぞーって思ってたら、落ち着いてないですし、
なーんもないにお任せしておったら、
ただ起こってるだけですので、なーんもないわけなんですけど、

ややこしくなってきましたね。

落ち着かなさであるアタフタさんが、
思いを巡らせることによって、不幸の種を産み出しますが、

普通に落ち着いて
その落ち着きが「なーんもない」に溶け込んだら、
不幸は不在となります。

すると幸せがそこに残るというわけです。

説明の必要も、
理由づけも、
何にも必要のない、
意味のない幸せが最初っから広がっておる。

という事なんですよね。

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