Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

真実と幻想

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今ベンを持ったとして
このペンを持った感触。
この感触そのものがあなたそのものです。
それを行為している、感触を感じているという行為者としてのあなたというのはおらず、
感触そのものがあなたそのものなんです。

つまり、ここには、自分と感触という二者がいるのではなく、
感触だけがあるわけで、感触はそのままあなた自身なんです。

文章を書こうという意図が起こったなら、
その意図そのものしかなく、
ここにもなにかしらのものを創造しようとする意図しかなく、
自分とはもうその意図そのものなんです。
これを言い換えると、もうその起こってることだけしかないとなります。

自分と言うのを何かに気づいている存在。
何かを行為している存在だと定義しているのであれば、
そんな誰かはどこにも存在してないんです。

これが、ワンネスだと言われたり非二元と言われたりするゆえんなんです。

さて、実際に起こっているとしたら、
何かが個別に確実に起こっているといったイメージが付きまといます。
また、起こる前と起こった後という変化というイメージも付け加わります。

ですが、実際には何も起こってなくて、
起こったように見えているだけなんですね。

だから、何も起こってないとも言えるわけです。

ですが、起こってないとすると、
静かでシーンとしてて、物音ひとつなく何の現象もないのか?
というと、もちろんそんなわけでもなく、
全ては流動的に起こっているわけです。

だから、何も起こっていません。
というのも不正解だという事になります。

起こっていて起こっていません。
どちらか一方だけなのではなく、全てが在る。
そして全て以外は無い。

としか言いようがないんですよね。

なんではっきり言えんのや!
って思われるかもしれませんが、

何かをはっきりしようとするから、
そのまんまが見失われるんや!

という事なんですよね。

全ての中で、取捨選択というイメージが起こっているんです。
何かをはっきりするというのは、取捨選択なんですね。

取捨選択を繰り返すと、おのずと範囲は狭まってきます。

範囲を極限まで狭めることで答えを求めようとすると、
視野がどんどん狭くなりますね。

視野がどんどん狭くなるとは、
今あるココから目を背けることになります。

ですが、いくら目を背けようと、今あるココからは逃れることも出来ないんですけどね。

ですが、イメージの中だけでは今あるココとは違った固定化された世界を
個々人が、頭の中で繰り広げてるんです。

この繰り広げられたイメージを幻想と呼ばれていたりします。
ですが、ここでも幻想なんだ!と言う定義をしてしまうと、
幻想なんだな!とはっきりさせてしまうと、

幻想があるのであれば、真実は幻想ではない別の場所に有るはず?

といった考えが出てきちゃったりするんですよね。

でも、それも取捨選択、分離があるという前提があるから
出てくる表現です。

この幻想はそのまんま真実なんです。

このパラドックスから抜け出るには、
何かをはっきりさせようとする衝動に気づかないと始まりません。

この衝動の波に乗ってしまうと、
いつまでたっても答え探しが終わりません。

この終わらない答え探しの旅が、探究の旅なんです。

探究を終わらすには探究の始まりを見抜く必要があります。

探究の始まりが、何かをはっきりさせる。理解する。
といった衝動になります。

この衝動の根っこには、分離という幻想があります。

分離とは、対象の主体と客体があるといった、ある種の定義です。

この定義が、自身の奥底で当たり前の土台となっているんです。

この定義には、確たる真実性はありません。
ただの定義。
つまり、オママゴトでいうところの役どころにすぎないんです。

この定義のウソさが見抜かれると、起こっていることと自分には
距離が一切なく、ひとつのモノになります。

すると起こっている事しかないという事になり、
自分と言う偽の定義が見抜かれることによって、
行為者、行為をしている自分という幻想も見抜かれます。

ココが見抜かれると、
起こっていることが起こっているだけで、これしかない。
となるんです。

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