Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

探究の終りについての誤解

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本来、すべては未知なんです。

でも、僕らって、未知に留まろうとすると、
なんていうか、どうしても何かを掴んでおきたいっ!
といったような
くぉぉぉぉ!ってくるエネルギーを感じるときがあると思います。

この衝動がまさに探究のエネルギーなわけなんですがね。

この衝動にはこの衝動の言い分があるわけです。
例えば、
「ちゃんと知っておかなきゃ安心できない。」
みたいなのが定番ですねー。

だから、安心の材料を探すわけですね。

そこでですよ。
この衝動を手放せば、この衝動から自由になれる!
つまりそれが探究の終りだというわけだな!

ってねー。
普通は考えますよね。

この辺がねー。ちょっとした誤解になってるんじゃなかろうか?
なんて思うわけなんですよねー。

と、言うわけで、今日はこの辺の誤解について書いてみたいと思います。

 

そもそもね。
「安心したい」という思い。
これって、悪いモノじゃないですよね。

そんなもん、あって良いですし、あって当たり前ですもんねー。

なので、この衝動があるのは別に問題ないわけです。

なので、この衝動をどうにかしようとするとなると、
どうにかしたい衝動が出てきてしまいますので、

これって、衝動を別の衝動で覆い隠そう!みたいなことになっちゃいますのでねー。
なんていうか、ずっと衝動にコントロールされちゃってる。
なんてことになっちゃうんですよねー。

「安心したい」という衝動は、安心材料を探し出します。
結局、この衝動を手放せばここに安心がある。と聞くと、この衝動は、
衝動を手放して安心を得たいというようになるわけでして、
結局衝動は変わらず起こり続けることになります。

そして、その衝動に気づくたびに、
「ああ、まだまだ探究の衝動が残っている」
と思い知らされることになったりするんですけどねー。

なーんだ。
「安心」したいんじゃん。
そんなの人として当たり前じゃん。

ってことですのでねー。

わかんないまま、わからないの中でリラックスをしてみたときにね。

何かを掴み取りたい!安心したい!という衝動を見つけたときは、

「お!安心したがっとる!」

ってね。
単に見てあげたら良いんです。

子供が元気にはしゃいで走ってるのを見るようにね。
「元気に安心したがってるよねー」

ってね。
見守ってあげたら良いんです。

その衝動が、無事安心を見つけるのかどうか?
そこは別にどうでもいいことです。

この別にどうでもいいことに首を突っ込みだすと、
探しても見つからない、どこを探せばいいのか?
といったストーリーにはまり込みます。

もし、はまり込んでるのなら、
「わしゃ、なにをイメージにはまり込んでおるんや」
ってね。
ほっぺでもつねってあげたら良いんです。

このはまり込みは夢を見てるのと一緒ですからね。

別に夢をみることに害はないので、みたけりゃ夢に浸ればいいわけです。

どっちでも良いってことなんですが、どっちでも良い!ってことが納得できちゃうと、
そこに深刻さはなくなります。

だって、どっちでも良いわけですからねー。

なので、一度、わからんままにしておいてみるんです。
そして、わかろうとする衝動を見つけたら、優しく見守ってあげたら良いんです。

見守ってあげることによって、衝動以外のモノも見えてくるんですね。

そして、ココには、その衝動だけじゃないありとあらゆる全てが、すでにあったことも見て取れます。
名もなき、説明も無き全てです。
衝動の方だけを見ている間は、その全てが目に入らなかっただけなんですけどね。

そして、それを見た時、ありとあらゆる思考はとても愛おしいモノだったことにも気づきます。
あらゆる悩み、あらゆる不安、そしてあらゆる衝動のすべてが愛おしく命溢れた表現なんです。

すると、ココにあった、すでに許されていたという安心が姿を現してきてくれます。

「安心したい!」と暴れまわる衝動をそのまま愛おしく見守ってあげると、ここにある安心に気づくんです。

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