Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

探求が起こってるならそれも良し

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おっはようございます。
タクさんです。


なんか、修行とか悟りについての知識とか、
そういうのをマスターしていくってのも結局のところ、探究なので、
探究の先に「悟り」みたいな何かが見つけ出されるっていう事じゃないんですよん。


みたいな趣旨のことをよく書いている気がするので、、、
今日はちょっと逆の事を書いてみよっかなーって思います。


探究って別に意味はないんですけどね、
意味がないのは、探究だけじゃなくて、全部なんですよね。


でも、意味がないってなんか価値がない。
みたいに捉えられちゃったりするじゃないですか?
そうすると、なんとなーく、


なーんだ。
何にも意味がないんだー。
みたいにね。


ちょっと虚無的な感覚を感じたりすることもあるかと思うんですけどね。


意味がないっていうのは、
価値がないっていうのとは違って、


なにかしらに意味を求めるっていうシステム全体。


意味を求めるっていう価値観って言いますか、、、


そういう文化?といいますか?


それって、元々なくて、


意味があろうがなかろうが、価値に影響するわけでもなく、
ただ在るものは、価値があるとかないとかそういう判断すら介入の余地がないんですよね。


どちらかというと、これ以上ない最高級の価値だけがあって、
その価値ってのは意味ごときには、左右されない。


って感じです。


だから完璧なんですね。


その中で、ただ意味があるとかないとか、意味が無けりゃ価値がない、みたいな、
そういう設定の遊びが、
まさにオママゴトのようにおこってるだけなんです。


だから、元々は意味が無くて、
それでもって
何かしらの価値は意味によって成り立つっていうことでもない。
という事なんです。


でね、
探求だって、起こってても、全く問題ないんですよね。


探究に意味がないし、その先に何かがあるわけでもないのなら、
その探究は無駄なんだ!


みたいな考えもある種の探究なんですよね。


で、ヘンな話なんですけど、
探究が起こってて、それはそれでまったく問題ないんやなぁー。
って受け入れられたとしたら、


その時には、探求が終わっちゃうんです。


問題意識みたいなものが探究を引き起こしとるわけで、
それがないと、探究のエネルギーの行き場がなくなるんです。


探究ってのは、在るがままに対する抵抗みたいなもんなんです。


在るがままだと具合が悪いから何かしらの対応策を探そうとする。
単純にそれだけのことなんですよね。


なので、探究がダメなんだーっていうのも、
探究の一種だという事なんですよね。

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