Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

【悟りと目覚め】この世界は、はたして幻想なのか?

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スピリチュアルな教えではたまに、
世界は幻想であるという言い回しがあるんですよね。

この言い回しを、自分自身がとらえて、

幻想=ニセモノ!

だとしてしまうと、

まるで目の前の世界は、本当では無い偽の世界といったような、

とらえ方の誤解を生むんじゃないかなーっておもいます。

 

ホログラムという表現の方が近いかもです。

実際に写ってるようにみえるのは確かだが実体は無いんです。

それはキャンパスのようであり、

いくらでも色づけができ、

えがくことができ、

どのようにも、いかようにも見えるんです。

ただし、キャンパスはキャンパスでしかないんです。

ただ、それを描いている誰かは存在しません。

自我ちゃんが、見られている絵があるからには誰かが、もしくは自分のどこかが描いたんだろうと、想定しているだけです。

僕らはどうしても、感情や思考は自分が起こしていて
頑張ればコントロールできるという思い込みを根強く持っています。

だから、何かしらになろうとするのです。

悟りだってどうにかしたら身につくという誤解もあったりします。

そうやって動き回るから、捉えられなくなるんです。

完全な静寂を見出すには、

自身は止まらなければならないんです。
静寂そのものにならなきゃならないんです。

動くと、周りの景色も動いているように見えてきます。

子供のころ、
電車の窓から景色を覗くとまるで動いているように見えたりしませんでしたか?

これは、もちろんのことながら、電車が動いているからですね。

それと同じなんです。

止まる方法なんでありません。
方法論は、全て動きだからです。

なので困ったことに、
それなら自分が止まったらいいんだと思い、止まろうとしても、
その止まろうとすること自体が動きになるので結局上手くはいきません。

やはり、静寂に至るには、静寂そのものになる以外無いんです。

そしてそれは、自身の喪失です。

自身の喪失を自分自身が行うことは出来ません。

トライandエラーを繰り返している間は止まれません。
そこで、ああ、ホントに何にもすることが出来ないんだと納得された時に、
諦めが起こった時に、自身の動きがとまり、無くなります。

自分自身というのは、動きや行為そのものだったのです。

だから何かを捉えられるはずが無かったんです。

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