はじめに
はーいどうも!
おはようございます。
タクさんです。
刑事ドラマなんかをみてますと、
「事件だ!目撃者がいないか聞き込みをするぞっ!」
ってな感じで、目撃者探しなんかがまあ定番の捜査となってますよねー。
そりゃー、事件を見た人がいるのならその人に犯人の特徴を聞くのが手っ取り早いわけです。
ですが、この目撃情報って実は結構信憑性が低いんだそうです。
そのせいで、冤罪もあったりして、目撃情報はあまり信頼できないといわれています。
僕らの記憶って、次々と上書きされてしまうんですよねー。
また、確信がある!と自分では思っていてもやっぱり間違ってたりするのは日常茶飯事なんです。
どれだけ強く確信がある!と思っていても、その確信ってあまり記憶の信頼度とは関係なかったりするんですねー。
まあ普通自分の記憶を疑うことなんてしませんからねー。
さらにいうと、自分にとって確信がある記憶を疑うことなんてまずありませんもんねー。
でも、やはり自分が見たり聞いたりしたことというのは、結構あいまいだったりするんです。
ですのでね。
誰かの記憶も自分の記憶もあまり当てにならないんです。
つまり、そんな記憶から紡がれる物語もやっぱり当てにならないということなんですねー。
そりゃー、言った言わないのやりとりがなかなかなくならないわけですね。
ちなみに僕らは未来を予想する時も記憶を頼りにします。
ですが、記憶自体が完璧じゃないので結構頼りないんです。
そんな頼りないものを拠り所にしなきゃいけないという思い込みが、もしかしたら不安を生み出してしまう要因なのかもしれませんねー。
・思考ちゃんの「今」は常にズレている
さて、そんな思考ちゃんなんですが、記憶というものは過去じゃないですか。
そんな過去の記憶のパーツを寄せ集めてストーリーを作り上げるというのが思考ちゃんの働きですので、どうしても「今」を掴み取ることってできないんですよね。
思考の判断もやっぱり「今」を掴み取れないんです。
なぜなら、判断もまた過去の記憶を参照して判断されますからねー。
その間にもうこの「今」は消えてなくなってしまうんです。
つまり「今」と思考は常にズレてしまっているんです。
よく「在るのはこのいまここだけ」なんて言われてたりしますが、
この「いまここ」というのは絶対に思考で認識することができないんです。
ただね。
僕らは思考で作られた「今」を本当の今だと信じてしまっているんです。
思考によってズレたイメージに変換された「今」を本物の「今」と錯覚しているということですね。
・「今」でもう全ては完結している
ま、錯覚とか本当じゃないっていう言葉って思考ちゃんにとってはとっても嫌な言葉ですからねー。
思考ちゃんにとって自身の判断が錯覚とか言われちゃうともう一大事です。
なんとしても、ほんとうの「今」をつかみ取れるようにならなければならない!
ってなっちゃうんです。
ですが、どう頑張っても思考ちゃんは「今」を掴み取ることはできないんです。
だからここはもう諦めるしかないんです。
でもね。僕らには思考よりももっと身近に感じている感覚があるんですよね。
そして、この感覚こそ完全に今と合致しているんです。
それが、体の感覚です。
僕らは体の感覚を感じるのも普段は思考の判断を通したものを見ちゃうくせがあるんですけどね。
思考の判断を通さない生のダイレクトな感覚を感じてみると、もうこれが「今」なんです。
そして、この「今」に在ってみると、もうこの「今」で全ては完結しているということが明らかになってくるんです。
そして、過去も未来もなくこの「今」しか無いんですよねー。