Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

おニューの世界

はじめに

おニューの靴を下ろすときは、
ちょっとどこかへお出かけするときにしようと思ったりするじゃないですか。

でもねぇ。
それはイカンですよっ!それは!

なぜなら、おニュー靴は下手したら靴ズレすることがあるからです。
なので、近所のコンビニ通いなどで先に慣らしておきましょうね!

と、いうわけで、
どうもおはようございます。
タクさんです。

まあでも、
おニューっていうのは、ちょっとテンションも上がるってなもんですよね。
新しい!ってなんか良いですもんねー。

みなさんの最近のおニューはなんでしょうか?

 

代わり映えのなさは錯覚

はぁ〜なんだか、代わり映えのない毎日だなぁ。
退屈だなぁ〜。

ってなことを思ったりすること。
きっとみなさんもあると思います。

最初はワクワクドキドキしてたこともね。
いつしか、フツーの日常になったりしますもんねー。

モノだってそうですもんね。
最初はワクワクドキドキですが、
しばらく立つと、もうなんとも思わなくなっちゃいますもんねー。

でもね。
この、代わり映えの無さってね。
実は錯覚なんです。

この錯覚が見抜かれると、ちょっとウォッ!ってなりますよ。

今は常に新しい

代わり映えの無さがなぜ錯覚なのかというと、
今は常に新しいからなんです。

そして、あるのはこの「今」だけですからね。
全ては、常に新しいんです。

だって、今に過去を持ってくる事はできませんもんねー。
だからどうやったって今に古さってないんです。

ちなみに僕らって、連続性で物事を理解しています。
この連続性こそがストーリーの正体なんですね。

ですが、この連続性っていうのは観念であり解釈なんです。

こういった連続性の解釈。つまりストーリーとして世界を掴み取るから、
代わり映えのなさっていう錯覚を感じているんです。

なんて言いますか、思考の解釈ってものすごく雑な区分によるものだったりしますのでね。
ア行は全部この箱。カ行はこの箱って雑に分けてそこに放り込む!
みたいな感じで、片っ端からこれはこの箱、これもこの箱ってやって知ったことにしちゃうんですよね。そうやって雑に整理されたものが記憶となり、
この記憶によって、もうこれは知ってる。経験済み。繰り返し。
って判断しちゃうんです。
この判断こそが錯覚のようなものなんです。

本当は、目の前の世界は分けられる物ではなく、常に瑞々しく新しいんです。

つまり、記憶というものが古さというものを演出しているわけなんですけどね。
この記憶ってのもまた常に今、新しく生成されているわけでして、
この演出さえ常に新しいんです。

おニューの世界

まあね。
だから僕らが代わり映えのなさに退屈しちゃうのって、古さという幻想を見せられているだけでしてね。
目の前にあるそれは、新しくてみずみずしいんですよね。
この古さの幻想から目覚めると、目の前のあらゆるものがなんかもうワクワクなんです。

この全部が新しい!っていう感覚はねぇ。
あの子供の頃の感覚なんですよね。

「あ!これだ!久しぶりだ〜!」

そういえばいつからこの感覚を忘れてたんだろう??
ってきっと思い出しますよ。

見飽きた壁の模様や窓の外の景色。
聞こえてくる音。
あらゆる生き物の表情。

これらがみずみずしく蘇るんです。

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