Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

深刻さという引力からの解放

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はじめに

ほい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

非二元とか悟りとか、こういう話を聞いていてね。

「ウーン。何となく分かるんだけど、やっぱり私はまだ目覚めてないんだよね〜」

って思う方って多いかもしれませんね。

そういう体験があったという方はおられるかもしれません。
でもやっぱりまだ「私」は完全に目覚めたとは言えないんだよね〜。

ってな感じでね。

ま、これ。
当然のことでしてね。

そもそも、目覚めた人なんておらんわけです。
個人が目覚めるということはないんです。

ま、この「個人が目覚めるということはない」というフレーズは何度も聞いてると思いますので、
あー、それは知ってる。

ってなると思うんですけどね〜。

知っていても、やっぱり個人が目覚めようとしてしまったりするんです。

そして、時に、それができたような気がしたりするんですよね。

例えば、瞑想中にものすごい静寂の中に在れたような気がしたり、
すべてが愛に包まれた感覚を感じたりね。

そこで、おお!「私」はついに目覚めた!
あとは、この状態をいかに維持するのか?
それが問題だ!

みたいにねー。
また問題を作ってしまったりするんですよね〜。

 

ワタシの探求

ま、僕らの思考ってね。
何かしらを問題だと感じているときって、
もう知ってることを軽んじたりするんです。

「個人が目覚めるということはない。」

みたいな話は知ってるので、
「それはもう聞いたよ。でもまだ私は目覚めていないんだ。」
ってね。

ちょっと変なんですが、そう思ってしまって新しいことを知ろうとしてしまうんですよね〜。

問題があるからには、まだ私が知らない何かがあるはずだ!
みたいなね。

そして、それを知ることができれば、
私は目覚められる。
もしくは、
言われているように私は目覚めないのかもしれないが、そのことを実感できるような何かがつかめるはずだ。

ってな感じでね〜。

自我の消滅、探求の終わり

また僕らを混乱させることとして、自我の消滅だとか探求の終わりっていう言葉があったりします。
自我や探求というのはいわゆる思考の働きですね。

ただ、この言葉のニュアンスだと、一切の思考が消え失せてもう起こらなくなる。
みたいなね。
そんなニュアンスも感じられます。

にもかかわらず、悟りとか非二元の人は
「何も変わらない」
ともいいます。

「起こることは起こり、そして消えていくんです。」

ってな感じでね〜。

「ちくしょー!また、当たり前のことを言いやがって・・・」
って思っちゃったりしますよね〜。

でも思考の機能がなくなるわけじゃないんですよ。

ただ、そこに強く同化させるような引力。
いわゆる深刻さがなくなるということでしてね。

もちろん、嫌だな〜!って思うことも起こります。
でもそれは深刻なのではなく、単にそういう思いが起こっただけであって、

思いに、良いも悪いもないんですよね。

深刻さっていうのは、良いと悪い、正しいと間違いという分離があって初めて成り立つ感覚でもあるんです。
そして、この深刻さによって、何度も何度も同じ思考を繰り返し反芻することになるんです。

探求の終わりっていうのは、
この深刻さへと引きつける引力からの解放とも言えるのかもしれませんね〜。

 

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