Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

覚醒だとか静寂だとかの状態を保つ必要なんてありませんよん。

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ありとあらゆる分離は思考の中だけで起きているわけなんですよね。
実際には分離は存在しておらず、分離があるのは思考の中だけなんです。

そして、思考は言葉によって洗練されていきます。
実際、言葉を使わずに思考を発展させていくことって出来ないんですよね。
なので、思考を駆使する場合は頭の中で、イメージと言葉を紡ぐんです。

それはまさにストーリーと同じなんですよね。

夢を見ているのも、
物語を妄想しているのも、
そして、現実として起こっている人生の物語も、

じつは中身は同じなんです。
その中身とはストーリーなんです。

同じなのに、これは現実で、これは夢で、これは妄想。
ってストーリーもまた整理して分類してるんですよね。

 

こう言う仕組みに気づくには一旦思考を止めてしまうという方法はありだと思います。
瞑想は、そのためにとっても役立つことだと思うんですよね。

僕らが感じているストレスって、こういったストーリーに巻き込まれすぎている場合に起こったりするもんなんです。
そして、そのストーリーに身体も反応して、
どこかが凝り固まったりしちゃいます。

いつも同じストーリーが頭の中でぐるぐると回っちゃってるような時は、
身体の方も結構消耗しちゃってたりするんですよねー。

なので、力を緩めて、思考も沈めてリラックスするっていうのが、
ヨガや瞑想の役割だったりするわけです。

もちろん、ヨガや瞑想が、唯一の方法ってわけじゃないですけどね。
お茶飲んでゆっくりするのでもいいわけです。

よく言われる一瞥とか見性とかの体験って、
そうやって、思考を沈めて、思考がない状態でも、ちゃんと在るんだーってことを発見することなんですよね。

なぜか僕らって、思考や状態を掴んでおかなきゃ存在できないんじゃなかろうか?
なんて誤解をもってたりするんです。

でもそれが誤解だったというのは、
よくよく考えてみると、そりゃそうやろ!って当たり前のことだったりもするんですよね。

例えば、目の前に座ってるおっちゃんがいるとするじゃないですか。
そのおっちゃんが、頭の中で何か考えたり、思考が消えたりをしたところで、
別に、消えたり現れたりしてないですよねぇ?

実はそのことを自分で発見するってことなんです。
「僕って、僕だ!という思いがなかったとしても普通に存在してるんだー。」
ってね。
アホみたいに当たり前なことだったりするんですけど、

「何かを考えて掴んでないと存在してないんじゃないか?」
っていう誤解がまだ残ってる場合は、
「やっぱり何かを掴んでないと存在できない!」
って思ってますのでね。

一瞥をしても、それを体験として掴もうとしますし、
何も掴んでない状態をも掴もうとしちゃうわけです。
そして、掴めたら、それが悟りなんだ!なんていうストーリーを作り上げちゃったりしてね。そのストーリーを追っかけちゃったりするんですよね。

はたまた、そういったストーリーがさらに発展して、
この体験は宇宙意識の目覚めだ!
でもこのスピリチュアルの道はまだまだ先があって、
どんどん波動やらなんやらを向上させて意識が広がっていくと、神意識の目覚めが待っているんだ!
みたいな壮大なストーリーを紡ぎ出したりするパターンもあるっぽいです。
ストーリーはイメージですので、それをさえぎる障害はありませんのでね。
いくらでも広げることが出来るんです。
そうやって広げ過ぎると、意識の肥大化が起きちゃったりするわけです。

よし!悟りの一瞥はゲットしたぞ!あとは悟後の修行のプロセスだ!
っていうのもねー。結局何かを掴んでないと存在できないっていう誤解からくる思いが残ってるっていうことなんですよね。

そう聞くとどうしても、ありとあらゆる思いを消し去る。
っていうようなゴールを描いちゃいがちなんですが、そういうことじゃなくて、
単に、何かを掴んでないと存在できない!っていう誤解が抜けるだけなんですよね。
なので、思いを起こす機能がなくなるということではないんです。
そもそも、それを起こす主体者もいてませんし。

主体と客体という概念も何かを掴まないことには出てこないんですよね。

つまり、何かを掴むとそこで分離が生じるんです。

そして、ややこしいことに、掴んでる、掴んでないとか書いてますが、
実際は、誰も、何も、掴んでないんですよねー。
それさえもイメージやというわけです。
なので、掴む、掴まないなんていうのもなかったんやーん。
って気づくんです。
ホント、夢の様なものですよね。

なので、生じていたと思っていた分離すらホントは無いんです。
在るでも無いでもどっちでも無いしどっちでも在る。

どっちでもあるということは「どっちでもいい」。
なーんてとこに落ち着くんです。

これで、イイのだ♪

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