Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自分感覚という錯覚

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

いやー!やばいっすねー!
12月ですよ!12月。

今年はなんかいつもより輪をかけて早かったような気がします。

ホント、今年何があった?とか聞かれてもよくわからないですもん。
去年の忘年会だってつい最近のような気がしますし。

まーでも、今年はあまり遊ばなかったような気がするな〜。
来年はちょっといろいろと遊ぼうかな〜。

でね。
例年通り、なんか12月って忙しいんですよね。

これって、誰かが忙しぶりたくてその影響がこっちにも来てるんじゃないだろうか?
って思ったりします。

みなさんの中にもお忙しい方もおられるかと思いますが、
寒いのでどうぞお身体ご自愛下さいね!

 

・自分が消える?って、よくわからん!

良くね。
「自分が消えるっていうのがよくわかりません!」
っていう質問を頂きます。

だって、自分いるもん!これがいないなんてわからないし、
どうやったら消えるのか?なんてことも分からーん!

ってことなんですけどね。

でも、この自分っていうのは、自分をやってる時にしかいないんですよね〜。

マリオのゲームをやってる間しかマリオがいないのと同じ感じですかね。
で、このゲームのマリオって実在しているのか?と言いますとそうじゃないですよね。

ただ、いるということにしているだけ。
そうしないとゲームが始まりませんもんね。

このマリオが消えるのは、ゲームの電源を落とすだけです。

ゲームをしなければ、マリオはいません。

自分というのも、自分をやっている間しか存在せず、自分をやるのを止めたらもうココには自分はいないんです。

・自分感覚は消えない

別にこれは、「人間をやめるぞ〜!」ってことではありません。
自分をやっているというのは、自分という何かを中心にストーリーを展開しているということです。
つまり、なにか考えているということですね。

この考えている内容。つまりストーリーにそって、そのストーリーにあった自分というものを作り上げているんです。

だから、なにも考えていないときには自分は存在しないんですよね。

でも、自分感覚という感覚は、考えていなくても存在します。
この自分感覚を自分だと錯覚していることも多いんです。

なぜなら、この自分感覚というのはずっとありますからねぇ。
この自分感覚を感じながら、自分を中心としたストーリーをみているので、この感覚も含めて自分だと錯覚しているんです。

だから、自分が消えるということは、この自分感覚が消えると思っている方もよくおられるんですが、これは消えないんです。

・自分が消えても、何も消えない。

僕らって、自分を中心にしたストーリーを常に見てたりしますからね。
そして、常にここにある自分感覚もこのストーリーの中の自分と混同してしまうんです。

そして、この自分という感覚があるから、やはり「自分」は存在するって思ってたりするんです。

我思う故に我あり!って感じですかね〜。

何かを触っても、感触を感じている自分がいますし、
何を考えていても、考えている自分がいますし、
何を食べていても、その味を感じている自分がいますもんね〜。

だから、この自分が消えるということは、まるで感触も感覚も全部消えてしまうんじゃないの?
と思っちゃったりしているんです。

でもね。
この自分感覚というのは、「自分」感覚ではないんですよね。

ただの「感覚」なんです。
自分はそこに存在していません。

このただの感覚の上で、「自分」を中心としたストーリーを思考の中で展開しているだけなんです。

むしろあるのはこのただの「感覚」だけなんです。

この感覚は誰の感覚なんだろう?っていう思考の問いに答えた時点で、自分という幻想が始まるんです。

ですのでね。
思考の問いについてはもうスルーしてやってください。
「自分がいない」を知ろうとすればするほどハマっちゃいますのでね。

 

 

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