Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

あるのは今だけ、今しかない

はじめに

はいどうもー!
おはようございます。
タクさんです。

いやー、昨日ねぇ。
ひっさしぶりに吉野家にいったんですよ。
牛丼を食べにね。

吉野家はねぇ。
学生時代の夜勤バイト帰りによく行ったんですけどねぇ。

なんかね。
イメージとしては、腹をふくらませるだけ!
みたいなイメージだったんですけどねー。

ひっさしぶりに食べると、めちゃくちゃうまいっすね!
吉牛!
サイコーです。

でね。
学生時代なんて、大盛りとか特盛とか食べてたはずなんですけどねー。
今はもう並でもう腹一杯になりました。

しかもお昼に食べたんですけど、晩になってもまだ腹が減らないってくらいに食べごたえがありました。

あんなに腹一杯になるようなものだったっけなぁ??
昔は散々飲んで食べた後に締めで牛丼を食べてたような気がするんですけどねー。

 

・経験は持っておくことは出来ない

さてさて。
そんな牛丼ですが、
牛丼を食べたぞ!っていう経験ってね。
持っておけることって出来ませんよね?

食べたその瞬間だけ、あの食感を感じられるわけですが、
食べ終わったらもうこの経験は消えてなくなります。

確かに、
「ワシは牛丼を食べたぞ!」
っていう記憶は残りますけどね。

でもこの記憶って経験じゃないですもんねー。

でもね。
「あー、あの時食べた牛丼。美味しかったなぁ〜」
って思い出してイメージの中で追体験みたいなことってするじゃないですか。
ホわわわ〜んって感じでねー。

旅行の思い出話に花を咲かせたり、
同窓会で懐かしい話をして楽しんだりするのもそうですよね。

でもこれって、なんていうかイメージであり幻想であって、
その時の生の体験っていくらイメージや記憶の中に入り込んでも、
絶対に味わえないですよね。

つまり、僕らはどんな経験も、どんな体験も取っておくことなんて出来ないんです。

・今しかない

記憶と思考のストーリーっていうのはあくまで疑似体験であって、実際の体験ではありません。
また、どんな体験や経験も、そこに当事者というものはいないんです。

あの、牛丼の味わい。
これは後に記憶によってストーリー化されたときにはじめて主体というものが作られるわけですが、実際に食べている時。経験している時はそれを食べている誰か?なんて存在していないんです。
あるのは、あのダイレクトな味わいだけなんです。

これはどんなときも、もちろん今もそうなんですよね。

この今はどこにも持っていけないし、取っておくことも出来ません。
あるのは、この今のダイレクトな感覚だけなんです。

それ以外の記憶のストーリーによる疑似体験は、夢の中の出来事と同じようなものであって、それは全く事実ではないんですよね。

これが、あるのは今だけということなんです。

僕らはついついストーリーによる疑似体験のほうを事実だと錯覚しちゃうんですけどね〜。
それはまさに夢のようなものなんです。

今ここにある生のダイレクトな感覚。
ここに全集中してみると、記憶で作った疑似現実ではなく、生のイノチの息吹を感じられるんです。
そして、あるのはまさにコレだけでして、コレが全てなんです。

 

 

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