Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

【ウソの衝撃】ホントか?ウソか?へのこだわり

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
子供の頃はよく迷子になったタクさんです。

今では方向音痴もずいぶん克服されたんですけどねー。
子供の頃はしょっちゅう迷子になっておりました。

これは僕だけの仮説なんですが、方向音痴の人って
いわゆる方向で現在位置を把握するのではなく、景色で現在位置を把握してるような気がするんですよねー。
僕がそうでした。

景色で場所を覚えている場合は、似た景色を見ると結構勘違いしちゃうんですよ。
なんかこんな形の道を曲がった。みたいな感じで覚えちゃいますのでね。
それが似た景色の場合は、「あれ?ここはどこ?」ってなるんですよねー。

ちなみに僕が子供の頃は、ご丁寧に名前と住所を書いた名札をつけていたので、だいたい大人がなんとかしてくれました。

今は名札に名前と住所なんて考えられませんよね。個人情報ダダ漏れです。
なので、今の子って迷子になると困っちゃうんでしょうかねー。
でもスマホを使いこなして、難なく行きたいところに行っちゃうのかもしれませんね。

 

ウソの衝撃

さてさて、
そんな子供の頃なんですが、だいたい幼稚園か小学校低学年あたりに衝撃を受けたことがあるんですが、それがウソの衝撃です。

もしかしたら皆さんも小さい時にウソの衝撃を受けた方もおられるんじゃないかなー?
って思うんですよ。

子供。とりわけ小さい頃の子供って無垢じゃないですか。
無垢というのは疑うことを知りません。

だから、どんなことでも受け入れてきたんですよねー。
「これは⚪︎⚪︎で、あれは△△だよー」
から始まって、
「こんなことをしちゃいけません!」
「あら、ちゃんとしてて偉いねー」
などなど。

そんないわゆるルールというものをどんどん吸収し受け入れてきたわけですねー。

そしてそのうち、大人の冗談で
「お前は橋の下から拾ってきたんだよー」
といったようなね。
訳のわからんウソをつかれる訳です。

そしてショックを受けていると、
「ウソだよー」
って言われたりしてね。

ここで、あらゆるルールと一緒にウソという概念も知るんです。

そして、このウソの概念にショックを受けるんですよねー。
そして、この辺りから、何でもかんでも受け入れることが出来なくなるんです。
だって、ウソだったら大変ですからね!

そして、疑いを手に入れるんです。

疑いという概念

まー僕もこのウソという概念を知ってから使いまくりましたけどね。
特に小学生の頃って、ウソでもつかなきゃやってられないくらい規律が多かったですもんね。
遅刻にしろ、宿題にしろ、
「んなもんやってられるか!」ってなことがてんこ盛りでしたからねー。

ちゃんと宿題したの?って言われると「やった」と言うし、
遅刻をしても、
「ちょっと朝、お腹が痛くなって、、、。」
みたいな感じでね。
ウソを覚えるとともに、
「ウソはいけません!」
なんてことも習ったりするわけでして、
この世にウソをついたことがない人なんていないのに、
それはダメだ!と教えられたりするわけです。

そのクセ、大人はウソばっかりついていたりしてね〜。
もう疑いだらけになっちゃったりするわけです。

ウソもまた一つの概念

そんなこんなで大人になるにつれて、
ウソの恐怖や疑いに疲れちゃったりするんですよね。

嘘をつかない犬や猫や動物たちを見ているととても癒されるのも、疑い疲れがあるからなんですよ。

そしてウソは嫌だから僕らは真実を求めるんです。
真実を求めるゆえにホントかウソか?へのこだわりも強く持ってしまうんです。

ですが、ウソというのもまた概念なんですよね。
そもそも嘘も本当も無いんです。

だから私はいないとか、この世は幻想、思考は観念とか聞いても、
あまり焦らないことです。

私はいないとなると、「私」はウソということになってしまい、
この世は幻想で思考は観念であるとなると、この世も思考もウソということになってしまうかのようにみえてしまいますよね。

でもこれも、思考によるものの見方であって、実際にはウソもホントもありません。

だから、私もこの世も思考もウソなんだとしたら、本当の世界はどこにあるんだろう?
真実はどこにあるのか?と探さなくても良いんです。
世界も真実もどこかに行ったりしません。常にココにあるんです。
このココは一切の解釈をしなくても、ちゃんとココにあるんです。
なので、ココは解釈不要なんです。

 

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