Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

滑稽なジョーク

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

みなさん。
今日も快適に腎臓はうごいてますかー?

なーんてね。
ま、きっと皆さんの腎臓も快適に動いているからこそ、
こうやってブログを見に来てくれているんだと思います。

今日の腎臓はちょっと落ち込み気味だから、
元気だしていかないと!

ってな感じには、まーならないですよね。

なったとしたら、速攻病院行きですもんね〜。

ま、腎臓っていうのは機能的なものでして、
僕らはこの機能に一切関与してません。

ちょっと今日は多めに働かせてみよう!
って自分でコントロール出来ませんもんね〜。

また、この腎臓について、
「うっとうしいわぁ〜。この腎臓さえなけりゃもっと幸せになれるのに、、、。」
って思ったりもしませんよね。

むしろ、無けりゃ困ります。
そんなことを考えるのは、ちょっと滑稽なことでもあります。

こんな滑稽なことを、真面目に、しかも深刻にしてたとしたら、
ちょっとおかしいですよね。

 

滑稽なジョーク

でも、このような滑稽なことを、けっこう僕らはしているんです。

なにかの絵だったと思うんですが、布袋さんという神様が街行く人をみて笑っているような描写をみたことがあるんですけどね。

もしかしたら、この布袋さんも、こんな人々の滑稽さにちょっと可笑しくなっていたのかもしれません。

なぜなら、「思考」というのもまた、腎臓と同じようなただの働きですからね。
だーれもそれをコントロールなんてしていないんです。

そこに対して、
上手くコントロールできないことを悩んだり深刻になったりするのはちょっと滑稽な話なんです。

「思考」が作り出す物語にたいして、僕らが出来ることというのは、
それを単に味わうだけです。

車窓の景色のように味わうのが、思考の物語であって、
それに介入し、なんとかしようとするのではなく、ただただ委ねるものなんです。

介入者はいない

でも、思考の物語は、どうしても自分が介入しコントロールしているかのように感じるものです。
ですが、この自己というものもまた、機能のひとつであって、この機能を主体者である自分だと変に錯覚しているんです。

この自己という機能もまた、思考の物語のひとつなんです。

この思考の物語は、まるであつらえたかのように自分自身の心情にフィットしちゃいますので、どんな映画よりもしっくりと入り込めちゃうんですよね〜。
だから、まるでその物語がリアルに展開しているかのように感じ、
時に深刻にこのストーリーを体験しているわけです。

体験というのは、ホント〜にリアルに感じるものなんですけどね。
この体験というのもまた、思考のストーリーの中の住人なんです。
つまりは夢なんです。

よく一瞥体験だとか神秘体験の内容が、キラキラなストーリーとして表現されたりすることはありますが、これもまた一つの幻想なんです。

思考は思考

幻想というと、ウソということになりますので、思考ちゃんはそういうのを嫌います。
それよりも、リアルな真実を求めるんです。

でも、これもまたちょっとおかしな話でしてね。
思考自体が幻想ですので、思考で掴んだあらゆるものにリアルは存在しないんです。

だから、この話を聞いたり、何かを実践していると、そのうちすごい体験がやってきて、その体験のおかげで何かがより良くなる!
っていうことじゃないんですよね〜。

では、何が変わるのか?というと、シンプルに思考は思考である。ということに気づくだけなんです。

そのおかげで思考による縛りから解放されるということでもあるんですけどね〜。
でも、それは個人的な「私」が何かから解放されるということではないんです。

何がどうなるの?どうすればいいの?といったような思考が、
単に思考である。
もうこれ以上でもこれ以下でも無いってことなんですよね〜。

 

 

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