何らかのきっかけで、
もしくは何のきっかけも関係なく、
思考が一瞬ぶっ飛んで、思考の介在しないせかいを体験することがあります。
思考の介在しない世界を知らなかった時には、
おおお!!!
っていうインパクトがあるかもしれません。
今まで感じてた世界は、全部思考の中で解釈された幻想やったんかーいっ!
ってね。
そんなふうに感じるかもしれません。
でもそんな体験をしたからといって、何かの能力を失うことはありません。
その体験によって、手が動かなくなる!!!
なんてことはないのと同様に、
思考を使って物事を判断する能力が消え失せる!
なんてこともないわけです。
なので、ほとぼりが冷めると、また物事を判断するわけなんですねー。
でね。
その判断の題材として、今の体験を解釈しようとすると、
ちょっとややこしいことになるんです。
物事の解釈とは、
有る無し。良し悪し。
といったような二元の解釈を必要としますのでね。
そういった二元の解釈というまな板の上に、今の体験を乗っけちゃうと、
空と色。幻想と真実。
といったような解釈が生じたりするんですよね。
全ては空であり、それに色という解釈をつけて見てる世界というのは幻想なんだ!
そして、その幻想の中に苦があるんだ!
苦から解放されるためには、その幻想を打ち消し、空に溶け込み、そこから生きなければならない!
みたいなね。
なんかそんな解釈です。
でもねー。
それもまた一つの解釈でしかないんですよね。
そして、そういった体験を何やら価値のあるものとして掴みとっちゃうと、
相対的に、価値のないものも誕生しちゃいます。
価値あるものは価値がないものがあって初めて成り立ちますのでねー。
空こそが真理で、色は幻想。
みたいなね。
ぶっちゃけそういった区別はありませんし、無いからこそ束縛から解放されておる訳ですし、
その束縛は区別のなかにあったわけなんですけどねー。
でも、なまじそういった体験を何度もしていくと、
「うん!わかるで!!だってワシは思考が介在しない世界をしかと見たからね!」
となっちゃったりしてね。
なんていうか、体験の解釈といった物語に引き込まれちゃったりしてね。
はたまた、全ての意味が幻想のようなものだという様を見ちゃうせいで、
目的を失ったように感じちゃったりしたり、
また、まだ残ってる「思考を使って物事を判断する能力」を打ち消そうとしてみたり、、、。思考を介在しない世界に留まろうとしてみたり。。。
これらもぜーんぶ独り相撲のようなものなんですよね。
そして、その独り相撲に気づいた時、
思考を介在しない、真っ平らな世界というのはありふれた平凡さなんだと気づくわけです。
そして平凡だからこそ、皆すでにその平凡さの中にあって、
そして特別さは必要なかったことに気づくんですよね。
「なんで、そんななかで、何かになろうと踏ん張る必要があると思ってたんだろう?」
と、その独り相撲の滑稽さに笑う時、
そこにある自由と優しさに再び包まれるんです。
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