Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

気づき以外の何かを見つけることができない。

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ま、どこまで行っても実際のところ気づきしか無いんですよねー。
経験って言ってもイイかもしれませんが、
それ以外の何かってないんですよね。

座っているなら、そのお尻に感じるクッションの感覚。
目に飛び込んでくる文字風のシミ。
そのシミが解釈された言葉。
その言葉から連想される記憶。
その記憶から組み立てられる物語。
今日の予定。
目の前のコップ。
外を走る車の音。

これらぜーんぶ、ある種の経験ですよね。
ある種の経験から「ある種の」を抜いちゃうと、単なる経験、気づきだけしか残りませんね。

そして、その気づきを体験している自分。
っていうのもまた、一つの解釈として起こっている思考ですよね。

これもまた、一つの経験なんです。

 

以前の出来事に対する後悔。
これから先に起こることへの不安。
希望とその希望への模索。
もし希望が叶えられなかったら、、、という恐怖。
頭のかゆさ。
胃腸の調子。

これらもぜーんぶ気づきであり経験の一部なんですよね。

あらまぁ。
どこを探しても気づきじゃん。
その気づきに対する体験者さえもまた気づきなんだとしたら、、、。

お!目の前の世界。
この経験、
この気づき。

もうそれが全てであって、それしか無いって事になりますよねー。

あらゆる気づきに格差を設けているのも、
その格差をつけたいという思いがあるからで、
その思いは何かしらの記憶から来ているのであって、
そしてそういうこともまた、気づきとして起こっている。

その気づきを体験しているという自分もまた気づきであって、
その自分にもっとより良い体験を与えていかなければならない!という思考もまた、
一つの気づきであって、、、。

気づきに色を付けだしたら、キリなく物語が発展していきますが、
その物語を横に置いておいてみると、あるのは言葉のない気づきだけになりますね。

言葉のない気づきは、意味づけを与えられることはなくなっちゃいますので、
気づきの中の格差がなくなっちゃいます。

その気づきが物語を失うと、
物語を発展させる記憶を参照することも無くなりますので、
目の前の全ては、
意味という色付けがない無色透明でありながら、
同時に新鮮な未知のものとなります。

赤ん坊の頃に見ていた景色と一緒です。

その景色を見た時にね。
僕らをあれこれ悩ませていたのは、目の前の景色じゃなくて、
付け加えられてた物語の中にあったんだってことがここで発見されるわけなんです。

そして、そこで未知と既知は全く同じものだったことも明らかになっちゃうんです。

もちろん、この発見があったからといって、何かの機能を失うことはありません。

「すべては完璧だわぁーうふふふふ〜っ」て、
なんか現実味のない人間になるというわけでもなく、
アホになるわけでもありませんが、
アホとカシコに差なんてないことを知るわけです。

だから、起こる事に対して無感覚になるわけではなく、
物語を付け加えない、ナマの「より濃いイノチ」の感覚を感じるようになりますし、
もちろん、それでいながら、今まで通りに起こる物語も見ることになります。

ただ、それが物語だと見抜かれてるだけなんですよねん。

イノチの感覚とは、常に表現が移り変わり、
それでいて何も変わらないエネルギーです。

あなたが生きている。
そのエネルギー。
そのイノチはどことも分断されていなくて、
あなたのイノチは全てと連動しています。

すると、あなたは全てそのものであって、全ての中には私もあなたも無いんです。

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