Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

形とラベル、そして名前

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。

絵の練習でね。
グラデーションってのがあるんですよね。

鉛筆なら、うすーい線を重ねていき、
徐々にこの重ね方を増やしていって色を濃くしていきます。

絵の具のグラデーションはもっと難しくて、
両端に違う色をおいて徐々に伸ばしながら真ん中でうまい具合に混ぜ合わせていくんです。

ま〜これが難しくてですねぇ。すごい上手な人はまるでコンピュータで描いたんじゃないか!ってなくらいきれいなグラデーションを描くんですよね〜。
そんなグラデーション作家みたいな人もいたんですが、
残念なことに、コンピュータで簡単にグラデーションを描けるようになっちゃうと
その価値も全くなくなっちゃいましたよね〜。

ま、そんなグラデーションなんですが、
グラデーションって何色?って聞かれるとちょっと困りますよねぇ?

夕日の空のような、赤から黄色になる移り変わるグラデーションの空。
この空の色って何色?って言われると、

このあたりは黄色で、この辺くらいからは赤。
みたいな表現になると思います。
でもどこからが黄色でどこからが赤なんてものは無いんです。

これって、海岸線でも森でも山でもおなじで、
どこからが海なんて線もありませんし、どこからが森なんて線もなけりゃ、ココからが山ですよ〜なんて区切りも無いんです。

にも関わらず、僕らはなぜか区切りがあると錯覚しているんです。

 

形とラベル、そして名前

僕らは普段、目で見えるものを認識しておりますよね。それに形をつけ、ラベルをくっつけてそのラベルの名前で認識します。

そして、あらゆるものには固有の形があり名前があるとしているわけです。

ですがそれらの形やラベル。これはまるで空想のようなものであり、架空のものでしか無いんですよね〜。

架空の輪郭線で形作られたものに、架空のラベルを貼っているだけです。

そんな形やラベルの奥にガッツリと存在しているものがあるはずなんです。
この存在を僕らはガッツリと観ておりますし、感じているはずなんですが、この存在は形もなけりゃラベルもないので、認識出来ていないだけなんです。

形とラベルの奥にある大元

僕らは普段、形とラベルによってあらゆるものを認識します。
認識されたものは、複雑に絡まり合い、世界観やストーリーを展開していくわけです。
そんなストーリーの中心に「私」というものを据えて、
あらゆるものは私が認識しているものとしているわけです。

ですが、このあらゆるものを形としてあらしめている大元があるんですよね。
形以前、ラベル以前の大元です。

その大元は存在的でもありエネルギー的でもあります。

良くあるたとえとしては、絵を絵としてあらしめているキャンバスのようなものです。
キャンバスに置かれた絵の具は分離なく敷き詰められるわけですが、そこに架空の輪郭線を引き、架空の形を作り、その形にラベルを貼っているんです。

もちろんこの形としているものもラベルとしているものも絵の具ですのでキャンバスと離れて存在しているものではなく、それらはキャンバスそのものでもあるわけです。

なので、大元のエネルギーあるいは存在の中であらゆる形やラベルがふわふわと漂っているんです。

そして、この形もラベルも大元と離れてはおらず、それそのものなんです。

 

 

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