はじめに
はい。
どうもおはようございます。
タクさんです。
いやー。
東京の電化製品のまちといえば秋葉原ですが、
大阪だと昔は日本橋というまちがこの役割でした。
今は秋葉原同様、アニメなどのポップカルチャーの町になっているみたいですね。
東京の日本橋は、にほんばしと読みますが、
大阪の日本橋は、にっぽんばしと読みます。
なんか昔はね〜。
街のゲームやさんには売ってないようなゲームがあったり、
機械類がたくさんある面白い街だったんですよね。
パソコンの海賊版のゲームも売ってたりしてね。
で、小学生の頃のぼくはお年玉を握りしめて電車を走らせ、大阪にっぽんばしまではるばるでかけたんですよ。
そこでねー、なんともカッコいいゲームのポスターを見ましてね。
うわ〜!カッコいいなぁと思ったんですが、
どうにもこのゲームのタイトルが当時読めなかったんですよね。
そのゲームのタイトルが
「Ashguine 虚空の牙城」
っていうタイトルだったんです。
もうすぐ発売!!
なんて書かれていて、是非欲しい!って思ったんですが、
いかんせん小学生の僕にはこのタイトルが読めないんですよ。
「??????そらのなんとか城??」くらいしか読めませんでしてねぇ。
虚空ってのが読めなかったんです。
今みたいにスマホとかがあればサラッと調べられるんですが、
当時は辞書がないと調べられませんからねぇ。
うわー!絶対にお年玉で欲しいのにぃ!タイトルがわからんっ!
と悔しい思いをしたのを覚えています。
一人で遠くにお出かけってのも初めてで、誰かに聞くのも、みんな知らない大人ばっかりでちょっと怖かったので、すごすごと帰ってきたのを覚えています。
というわけで、今日はあのときの悔しさを取り返すっ!!
じゃないですが、
虚空ということをテーマに書いてみたいと思います。
虚空とは
虚空とはまさに、な~んにもない空間です。
空間といえど、なーんにもないので、境界もなく妨げるものがありません。
それでいてあらゆる全てが存在する場所でもあります。
あらゆる全てですから、僕らも含めて、あらゆる世界もまたココにあるんです。
「な〜んにもないのにあるってどういうことよっ!」
ってツッコみたくなる気持ちが湧くかもしれませんが、
僕らがあるとしているものというのは、このな~んにもない全ての中で、
架空の境界を引いて区別しているものなんですね。
僕らが何かをある!と理解するためには、この有るモノの周りに境界線を引かなきゃならないんです。
それはまさに実際にはない線です。
国境のようなものですね。
あることになっているが、実際には無い線。
僕らがあると理解しているあらゆるものは、この架空の境界線で区切られたものなんです。
何にもなくて全てでもある
だから、何にもなくて全てがある。この虚空こそが在るものなんです。
そして、この虚空はまさに生きています。
生きているので、停滞することはありません。
同じ状態を維持することもないんです。
なので、この虚空は言い換えると、つねに流動しているエネルギーのようなものでもあるんです。
このエネルギーこそ、イノチであり生なんです。
イノチは分割することは出来ません。全てとして在るんです。
それでいて、思考で捉えているような個別性は一切ありません。
全てとは、個々のものが寄り集まったものではありません。
個々のもの自体が、実際には無いんです。
思考ちゃんは虚空を嫌がる
思考ちゃんは、そんな何にもない虚空を嫌がります。
なんにもないのであれば、何も始まらないし、
そして、それはとても虚無的だし、つまらないし、
意味も意義もないし、やりがいもないし、退屈だからです。
だから、思考ちゃんはそんな虚空の中に架空の境界線を設け、
分離を作ります。
これらをイメージの中で作るんです。
そして、それらを材料にストーリーを作り上げます。
このストーリーの中の主役は自分です。
この自分は分離にさらされていますので、この分離を埋めようとします。
なので、埋めるための何かを探し求め、ますます虚空を避けるようになるんです。
ただ、イメージの中で何をどう料理しようが、常に今、ココに虚空は、
イノチの生の表現として、全てとして在るんです。
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