はーい。
ダイエットしようという思いが強くなる時は、
お腹がいっぱいの時で、
お腹が減ると何を食べようか?とワクワクしちゃうタクさんです。
どうもおはようございます。
今日もよろしくお願いします。
ということでねー。
話は変わりますが、
「よく観てみるんですよー。」
「できることってそれくらいしかないんですよー。」
ってなことをね。
書いているわけですが、
「観たとしてもやっぱり、怒りや悲しみも起こってきますし、
頭の中のおしゃべりが止まりませんっ!」
といったようなこともよくお聞きします。
というわけで、今日はその辺について書いてみたいとおもいます。
ま、怒りや悲しみ、それに伴う頭の中のおしゃべり。
こういうのが起こると、やっぱりツライですよねぇ。
だからね。
それを止めなきゃならないって思っちゃいますよね。
そして、それを観てみたなら、止められるんでしょ?
って思うわけなんですけどねー。
もちろん、そうなんですけどね。
ちょっとここにパラドックスがあるんですよね。
観てみる。というのって、頭の中のおしゃべりの具体的な内容を観るというのとはちょっと違うんです。
頭の中のおしゃべり。このストーリーの具体的な内容をみるっていうのはね。
もうすでにみてるわけですよね。
頭の中のイメージとおしゃべりが一緒になって、自身が一番近くで観ているわけです。
これを改めて観ると言っても、もうすでに観てるわけなんです。
でね。
すでに観てるんだけど、実は観てることに無意識になってるんですよねー。
なので、リアルに起こっているように感じるんです。
もしこれがね。
頭の中でおしゃべりが起こってるなー。ってね。
観られているのだとしたら、あまり問題にならないんですよ。
頭の中のおしゃべりを現実だと思い込むからこそ問題と感じるわけでして、
その時は、単なる頭の中のおしゃべりとは観ていないんです。
つまり真実として観ているんです。
なので、しっかりと巻き込まれてしまうというわけなんです。
観る。というのは、
「わしゃいったい、なんの観念をつかんで、何を真実として感じているのか?」
ということを知ることなんですよね。
そして、そうやって観るためには、それが起こっていること。
つまり、怒りや悲しみが起こっているということを許容してあげなきゃならないんです。
もしね。
目の前で絶対にあってはならないことが起こっているのだとしたら、
ふーん。って感じで観られないんです。
取り乱しちゃいますもんね。
つまり、問題に入り込んじゃいますので、観れないんです。
なので、観れば、怒りや悲しみは鎮まっていくわけですが、
鎮めるために観ようとしてもできないんです。
だからね。
まずは、現状を許容してあげなきゃ、現状を観ることはできないというわけなんですねー。
問題に入り込んじゃっている時は、自分が何を許せていないのかも観えていません。
観えているのは問題だけになってしまっています。
するとそれは、ありのままを見ているということではなく、幻想を見ているようなことになっているんです。
ありのままを紐解いていく。
これが観てみるということなんです。
それは、言い換えると、
自分はどんな観念を掴み取っているのか?
どの観念が怒りや悲しみを演出しているのか?
これを観るということなんです。
そして、観念が悲しみや怒りを演出するのは大いに結構なことなんです。
まずはそれを受容してあげること。
今、悲しんでいるのなら、私は今悲しんでいるんだということを受容してあげる。
怒っているのなら、怒っているんだな。ということを受容してあげるんです。
そして、悲しんでもいいし怒ってもいいんです。それも受容してあげるんです。
そこで初めて、何に悲しんでいるのか?どんな観念をつかんでいるのか?
それを観ることができます。
こういう観念(条件)を掴み取っていて、その観念(条件)つまりは、
「〜であるべき。」という条件に沿っていないことに対して、
悲しみが起こってるんだな〜。
ということを観てあげると、それがありのままなんだということがわかってきます。
そして、それはあってもいいことなんだと受容してあげることで、
その思いは成仏してくれるんです。
思いはわかってほしくて生じているわけですので、観てあげることで思いは満足してくれるんです。
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