Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

【真実と真理】真実はとても平凡

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ほい。
おはようございます。
タクさんです。

ご機嫌いかがでしょうか?

さてさて、
真実や真理について、みなさんどうお考えですか?

真実というからには「本当のこと」というわけですよねぇ。

つまりは、明らかなことでもあるはずです。

よく、真実を知るために長い旅に出る。
とかね。
本当の私に出会うための旅!
とか、
よくわからん禅問答を解いた先に真実がある。

とか、ありますが

「そんなわけないやろ!」

って思ったりしませんか?

というわけで、真実はどこにあるのか?
について今日は書いてみたいと思います。

 

ま、結論から言うと、真実というからには、
ここじゃないどこかにあるなんてことはありえません。

だって、どんだけ嘘で固めようが、演技をしようが、タテマエで取り繕ってみようが、
真実は揺るぎませんよね。

つまり真実はどこにも逃げないんです。

真実は深淵な奥深くにあるわけでもなく、
遠くのどこかに隠されているわけでもなく、
とても平凡に、そこかしこにころがってるものなんです。

真実は特別なものではなく、とっても平凡なものなんです。
つかむ必要すらない平凡さなので、それを掴み取ることはできないんですよねー。

逆にいうと掴み取れるものは、どこか特別さがあるからなんですよね。
僕らは言葉で世界を捉えることに慣れすぎていて、習慣化されてしまっているので、
あらゆるものを見た瞬間、その対象を言葉に置き換えてしまいます。

そして、言葉で置き換えられた瞬間、その対象は、他の何物でもない「何か」として振る舞うんです。

雲としてとらえられた瞬間、それは空ではなく、「空に浮かぶ雲」として振る舞うといった感じですねー。

ま、そんな言葉なんですけどね。
基本的には頭の中で呟かれているんですが、
この言葉はどこに向けられているのか?

ここを感じてみると、もしかしたら
ひょうしぬけするほど単純な「それ」に気づくかもしれません。

「へ?どこに向けられてるって?」
「そりゃー、自分でしょ」

ってね。
なると思うんですよね。

では、その自分は誰なのか?

ってなるとどうでしょう?
もちろん、いろんな言葉で修飾することはできるでしょうけど、
修飾された言葉もまた、どこかに向けられているわけです。

となると、もうどんな言葉にも当てはまらない「気づき」にたどり着くんです。

その「気づき」は当たり前に無意識に自分だとしていたものでもあるんですよね。
でもその自分もまた言葉なので、自分ですらなく、

もう単純に、気づいているだけ。
ということになります。

どんな修飾にも当てはまらない、単なる純粋な意識。

それが、「それ」なんです。

本来の自分、「気づき」「それ」
これはものすごく奥深くにあると思っていたのなら、それは思い違いです。

え?その自分なら知ってるけど??という自分。
この自分感覚こそ、気づきの正体なんです。

「私は誰か?」
それは、その言葉を聞く者。つまりは気づいている者なんですねー。

私とは言葉の定義の中に在るのではなく、まさに今、聞いている者であり気づいている者であり、言葉で彩られたあらゆる対象をも包み込む者でもあるんです。

この単純な気づき。
これは観照者と、とらえられるかもしれませんが、観照者もまた、対象の一部だと見破られた時、
観照者は、純粋な意識へと溶け出していきます。

純粋な意識とは、
あらゆるものを包括し、全てと混じり合うが故に全てです。
全てであるので、まさに純粋である意識なんです。

それは、まったき全てであるので、完璧で完全なんです。

 

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