Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

徹底的な死とその救いについて

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はじめに

あいよっ!
おはようございます。
タクさんです。

ま、ここでもね。
全ては気づきである。
それしか無い!

そして、あらゆることは起こっては消えていく。
それに気づいているだけ。

僕らの正体はその気づきそのものなんですぅ〜(はあと)。

ってなことをね。
ココではよく書いておるわけですが、、、。

今日はこの気づきってのも、思いっきり否定してやろうか!
って思います。

そうなんです。

「コレ」の話は、どんな取っ掛かりも許してくれないんですよね。
だから、実際には気づきすら無いんです。

これでもう、「私」は最後の取っ掛かりを奪われてしまいます。

そう。
気づきという取っ掛かりです。
これでもう、私はどこにも取っかかれなくなってしまいます。

そして、そこで言葉や思考を超えていくんです。

 

思考ちゃんのボルダリング

思考ちゃんはボルダリングのようなもので、
どこかに出っ張りを探し出してはそれをつかみ取ります。
これを繰り返して、上へ上へを目指すんです。

そんなボルダリグのでっぱりがドドドーンって取り払われたときに、
最後に残るのが、気づきなんですよね。

でね。
そこで、
「そうか!本当だ!気づきしか無い!!」
「私もおらず、全ては気づきそのものなんだ!」

ってなるわけです。
これがねー。
なんていうか、まだ若干の分離があるわけでしてね。
この若干の分離が、思いっきり元に戻しにかかってくるんですよね。
しかも巧妙に、そして気づかないうちにね。

気づいている私。私に気づいている気づき。

つまりね。
気づきってのも無いわけです。
この気づきがあるって感じはちょっと分離をしていて、
この分離が、気づいている私。そして私に気づいている気づき。
っていうちょっとした分離を持ってるんですよね〜。

でね。このちょっとした分離は超高速の細胞分裂を繰り返し、
またたく間にいろんな思考のストーリーに引きつけにかかってくるんです。

そして、いつの間にかまた、思考に戻り、
ゆったりとリラックスしたときにはまた気付きに至り。
と、こんなことを繰り返す羽目になったりもするわけです。

気づきをぶっとばせ

全ては、どんな取っ掛かりもありません。
つまり、思考がつかめるどんな取っ掛かりも幻想なんです。

だから、気づきというもの。
これも思考ちゃんがつかもうとする最後の手がかりなんです。

こいつをぶっ飛ばしたとき。
まさに、それが思考ちゃんの死であり、自分の死であります。

思考から解放される誰かは完全に存在せず、気づきに気づく誰かもいないわけです。
まったく何にもなくて、それでいて全てがあるんです。

完全なダイレクトさがここにあるわけです。

どんなに言葉を尽くしても、その言葉が取っ掛かりになってしまうため、
言葉では表現出来ないんですけどね。

あらゆる期待が砕かれ、思考ちゃんと自分の死が訪れます。
ボルダリングの出っ張りが全て取り払われて、本来はつるつるの壁を登っているつもりになっていただけだということを知るんです。

これが、救いなんですね〜。
皮肉なことに思考ちゃんが想像している救いとは全然ちがうんです。

 

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