Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「自分」というラベル

はじめに

ほーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

不思議なことにね〜。
僕らはすでに目の前にある全てを見ていながら、
その全てを別のものに置き換えているんですよね。

この置き換えはぜーんぶイメージの中だけで行われているわけですが、
そのイメージを見ているうちに、
次第にこの置き換えられたイメージの方を事実として認定しちゃうわけです。

そうやって置き換えられたイメージを事実とすることにより、
目の前のすべてを見ていながら、見失ってしまっているんですよね。

そして、ある時気づくんです。

「うわっ!まじで全てしか無いじゃん!」
「分離なんて無いじゃんっ!なんで分離なんてあると思ってたんだろう??」
「かーっ!だまされたー!」
「誰に?」
「自分に!」

ってな感じでね。

だから、目覚めっていうのは、何からの目覚めなのか?
といいますと、
「自分」からの目覚めなんですね〜。

自分が、何かを悟るわけではなく、
自分が、何かに気づくわけでもないんです。

どこかに、非二元だとか悟りだとか気づきがあるわけじゃないんです。

そういった物があると思っているのなら、
その思いからの目覚めでもあるわけです。

ありとあらゆる思いからの目覚めであり、その時ココに残るのが、
全部でありなんでも無いものであり、コレなんですね〜。

 

自分が目覚めるのではない。

ま、そういうわけですので、自分がなにかに目覚めるということではないということは、
もちろんのことながら、自分が何かしらの神秘体験の経験をもとに何かが変わるというお話ではありません。

まあ、よく巷でいわれているような神秘体験を否定しているわけじゃありませんよ。
僕も、色々と経験したことがありますし。
そして、この体験が自分を変えるということもあります。

でも、この話はそういうことじゃないんですよね。

確かに自分が変わったなら、以前の自分じゃなくて新しい自分に目覚めた!
って思うかもしれませんが、

そうやって自分が変わったとて、それはチョコ味が好きだったのが、
イチゴ味が好きになっただけであってね。

なーんていうか、ラマナさんの言葉を借りたなら、
トゲを抜いて別のトゲを刺すようなもの。
ということなんですよね。

このトゲというものが「自分」なんです。
そして、「自分」とは「思考」そのものなんですね〜。

「自分」というラベル

思考ってイメージでしょ。
だから、実際には実在していませんよね。
あくまでもイメージですからね〜。

そして、思考の中にしか「自分」はいないんです。

つまり、自分とは、実体のないイメージそのものなんですよね。

だから、自分というものは何者なのか?って捉えようとすると、
途端に捉えられなくなるんです。

絶対にココに自分は在る!
って感じているにも関わらず、その実態はつかめないんですよね〜。

でも、私は今もあれこれ考えてるし、
空腹感を感じたり、眠くなったり、痒くなったり、手を叩いたら手がジンジンしたり、
悲しんだり、喜んだり、怒ったり、泣いたりしてるよー!

って思いますよね。

この感覚があるからこそ、これが自分じゃん!って感じているわけです。

でもこれらもね。
「自分」がやっていることじゃないんですよね〜。

自分に起こっていると思っていること。これらはぜーんぶ、
「ただ」起こっているんです。

そこに「自分」はいないんですよね。
ただ、解釈するときに「自分」というラベルをくっつけているだけなんです。

そして、このラベルは実際のラベルではありません。
あくまでもイメージの中でそういうことにしているだけなんですよね〜。

 

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