Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

幸せと不幸の境界線

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はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

僕の三国志デビューは、横山光輝さんの漫画三国志です。
そこには様々な英雄が出てくるんですが、
諸葛孔明さんがねー。
やっぱり好きでしたねー。

その孔明さんがね、
死の間際に外の景色を眺めながら言うんですよ。

「あの蒼空、極みはいずこであろうのう?」
ってね。

確かに空を見てるとこの空はどこまで続くんだろう?
境目はどこにあるんだろう?
ってねー。思っちゃいますよね?

そう言えば子供の頃、空が青いのがどうにも不思議でなりませんでした。
それに輪をかけて海が青いのも、とっても不思議に感じたモノでした。

皆さんの三国志デビューはなんでしょうか?

 

空の極み

空の極みはいずこなのか?
きっとこの答えはないんでしょうねー。
だって、空に境界はありませんもんね。

川と海の境目もあるように見えてありませんし、
砂浜と海の境目もありません。

雨と晴れの境目もありません。

なぜなら、この世の全ては常に流動しておりますからね。
動いているものに境界なんてないんです。

ですが、僕らは常に境界があるという信念を持ち続けていたりするんですねー。

思考の土台

なぜ僕らは境界があるという思い込みに支配されてしまうのか?
といいますとね。

そもそも、思考の土台にあるものが、境界という概念だからなんです。
この境界という概念がなければ、思考は働くことができないんですよねー。

つまり思考は流動しているこの世の真実を捉えることができないんです。

的外れなモノの見方

では、思考はどうやって世界を捉えるのか?
といいますとね。
流動している世界を一旦、ピタッと止めた上で、境界線を引くわけですねー。
そして、境界線で分割して整理整頓した上で、世界を捉えるんです。

そうやって世界観を構築するんですねー。

だから、これはどこに境界があるのか?
ということにこだわっちゃうわけです。

つまり、この世の真実に全く別の概念を当てはめて、その上で解釈をしていると言うことになるんですねー。

これって、的外れなモノの見方をしているともいえますよね。
ちなみにキリスト教の罪の元々の意味は的外れという意味なんだそうです。

僕らが持っている原罪。それって、思考というカラクリの中にありそうですね。
そもそも、僕という概念もまた、思考の中にだけ存在する概念ですからねー。

解釈された世界の中で

そして、この解釈された世界の中で、僕らはこの境界線を持ってるがゆえに、
悩み苦しむ訳です。

幸せと不幸の境界線は実は存在しないんですけどね。
このラインを割ったら不幸。そうじゃなきゃ幸せ。
みたいなね。
そういった境界線を持つことによって幸せと不幸がうまれ、
それゆえに、幸せを求めているんです。

もし、この境界線を取っ払ったなら、不幸は消えて無くなります。

でもここでジレンマにぶち当たってしまうんです。

美しき自然の流れ

なぜなら、境界線を取っ払うと思考が働かないからなんですねー。
境界線は思考の中にしかありませんが、この境界線なしには思考が働くことができないわけですが、
僕らの思考ってねー。いわゆる働きの一つですのでね。
止めようと思って止められるものじゃないんですよね。

例えばね。
台風の中に駆け寄って!
「風よ!止まれ!」
と言ったところで止まりませんよね。

だって、風は僕らがコントロールしているものじゃありませんもんねー。

ちょっと疲れたから、1時間だけ、心臓を止めてみよう!
としても、止められませんよね。
これもまた、僕らがコントロールしていないからです。

思考の働きもまた、これらと同様でね。
止めようとして止められるものじゃありません。

思考もまた僕らがコントロールしているものじゃないからです。

そもそもね。コントロールという概念自体もまた、思考の働きの中にだけある概念なんですね。

そして、思考の働きもまた、止まったものじゃないんです。
常に流動しているものなんですねー。

だから、思考で思考をつかもうとしても、これまたできないわけです。

コントロールが概念なら、できる、できないもまた概念だからなんですねー。

「じゃあどうすればいいのよ!」
という思いもね。コントロールという概念を使った思考の一つの働きなんです。

  

takuteto.hatenablog.com

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