Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

解釈という幻想

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
昭和に生まれ、昭和を生きた男!
タクさんです。

なんか、スパイダーマ!のような登場をしてしまいましたが、、、

さてさて、
昭和って、よかったなぁと思えるものがある反面、
多分、今よりも街もみんなも臭かったんだろうなぁ。
なんて気がしています。
どこでもおっさん達がタバコを吸っていたし、
口臭ケアや体臭ケアみたいなものはあまりなかった気がしますからねー。

学校帰り、空き缶を蹴って歩いていた覚えもありますので、
きっと街にはゴミが普通に捨てられていたんでしょうね。

ポイ捨て禁止の看板も最近はあまり見かけませんが、
当時は町中にありましたもんね〜。

昭和が終わってまだ本の数十年なんですが、
随分と変わったもんですねー。

これって、いわゆる人々の共通ルールみたいなものが変わったんだと思います。
共通ルールというのは、共有された解釈みたいなもんですね。

こう言った解釈というのは、流行のようなもので常に移り変わるんです。

 

言葉と解釈

僕らは言葉を覚えることによって、解釈という概念を手に入れました。
この解釈によって、新しい世界観を作り上げるようになったわけです。

そして、この世界観を共有することによって、
その世界観をまるで本物の現実のように扱っているんですねー。

例えば、国という概念もそうですし、時間という概念もそうです。
会社だってそうですし、ありとあらゆるものを概念化しそれを共有しているというわけです。

こういった解釈っていうのは、イメージですのでね。
原料は必要ありません。

だから無尽蔵に作ることが可能なんです。

今も常に大量の解釈が生み出され、そして大量の解釈が忘れ去られているわけです。

解釈には流行り廃りがある

解釈というのは、言葉でできております。
そして言葉というものも、流行語というものがあるように、
常に変わるんですよね。

以前、とある言語学者が作った古代の日本語というものを聞いたことがあるんですが、
まるで外国語のようでさっぱり聞き取れませんでした。

江戸時代の言葉でも、ほぼ理解できません。

ちなみに、東北や沖縄などに残っている方言って、
古い日本語と共通する部分があったりしてなかなか興味深かったりするんですけどね。

ま、というわけで、
言葉が変わるのと同様に、解釈というものもどんどんと変わってくるんです。
つまり、
解釈は常に移り変わるので、絶対的に正しい解釈っていうのは存在しないんですよね。

正しさというものは存在しない

にもかかわらず、僕らは常に正しい解釈を求め右往左往しているわけです。
そして、今自分が持っている解釈は果たして正しいのだろうか?
と自問するわけです。

でも絶対的な解釈は存在しませんから、そのせいで途端に不安になったりするんです。

何を信じたらいいのか?
って悩んだりするわけですねー。

これってね。
冷静に考えると、ものすごく変なことなんですよ。

だって、解釈って実在してないじゃないですか。
つまり、持つことすらできないわけですよね。

架空の産物なんです。
空想と全く変わりないものなんですよね。

空想で、腹が満たされるわけでもなけりゃ、
この空想が命を育んでいるわけでもないんですよ。

命の営みがあった後で、そこに空想を付け加えているだけなんですよね。

つまり、架空の杖のようなものです。
この杖は、空想上のものですので、何にも自分を支えてくれてないんですよね。

ネコに、いろんな解釈を披露してみればわかりますよ。
きっと、「何を言っているんだ。うるさいなぁ。」
って顔をされますから。

 

 

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