Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

幻想と真実は同時に存在している

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
マイケル・ジャクソンのThis is itの冒頭部分は、何度みても泣けてしまうタクさんです。

おっさんになってから、すっかり涙もろくなってしまっております。

いや〜。
なんで歳を取ると涙もろくなってしまうんでしょうね?

やっぱり、映画は映画館がいいですよね。
家だと、ちょっと気が散ってしまうんですよね〜。

映画館だと、もう椅子に座りっぱなしが一応義務付けられるので、
それが没頭するのに丁度良いのかもしれません。

暗いから眠くなるのがたまにキズなんですがね。

映画館のように没頭させるシステムを
どうにか、普段の作業にも活かせる方法って無いんでしょうかねぇ?

一応、僕が気に入っているのは図書館なんですが、
それ以外の方法も模索中でございます。

ちなみに、パソコンでの作業では、
部屋の明るさをパソコン画面の明るさに合わせてちょっと暗くすると、
作業に没頭しやすいそうですよ!

オフィスは明るすぎなんです。
あれは、紙を見て仕事をする明るさなんですよね〜。

 

映画と現実

さてさて、
そんな映画なんですが、
いくら映画に夢中になっているとはいえ、
僕らはこれが映画であるということは、どこかでちょこっと分かっていますよね。

もし、家で映画を観ている最中に、「ピンポーン♪」ってなったなら、
玄関先に走りますもんね。

じゃあ、映画だから何も感じないのか?
というと、それは違いますよね。

理不尽なシーンでは憤りますし、
主人公の心情と一緒になって、
「ちくしょーっ!」ってなったりもしますし、

悲しいシーンではボロボロと泣いちゃいますし、
嬉しいシーンでは笑顔になったりするもんです。

ソレと幻想の現実との関係性

また、映画を観ている途中に、でもこれは映画だから!ってなメタ思考を持ってきても無意味ですよね。
それをやったところで、映画は映画として淡々と進みますもんね。

これがねー。
いわゆる真我と自我の関係と言ったら良いでしょうか?
「それ」と幻想と呼んでいる「現実」との関係性とちょっと似ているんです。

僕もよく、
「気づきがあるともう苦しみや悲しみを感じなくなったりするのか?」
ってなことをよく聞かれるんですが、
「それは変わらないよ!ただ深刻さが減るだけ」
ってな感じでお答えさせてもらってるんですけどね。

別に、いわゆる現実が幻想のようなものだと知ったとて、
ちゃんと悲しみも悔しさも、嬉しさも喜びも起こるんです。

不感症になるわけではありません。
むしろこれらはもっと濃厚になったりするんです。
ただ、悲しさもまた愛おしく良いものですし、
嬉しさも同じく良いものなんです。

映画だってそうですよね。
好き嫌いはあるかもしれませんが、悲しい映画はひどい!ってことにはなりませんもんね。

ソレは何も失うこと無く常にココにある

あらゆる幻想の現実は儚く起こっては消えると同時に、
全てである「それ」は、何も失うことはなく、常にココにある。

この両方が観えているって感じなんですよね。
(ホントは両方に分かれているってことでもないんですけどね)

僕らが、つい誤解したり錯覚したりするのは、
これらを一緒くたにしようとすることなんです。

なぜ、幻想であると分かったはずなのにまだ悲しみは起こるの?
っていう疑問も、一緒くたにしようとするからおこる誤解のようなものなんですよね。

別に幻想だからって悲しいものは悲しいじゃない。
っていうのは、
映画だからって悲しいものは悲しいでしょ。
っていう感じなんですよね。

ま、あくまで例えだから、完全に映画と一緒!と言うことじゃないんですけどね。

むしろ、映画よりももっと凄いですからね。
体感覚や全ての五感を通して演出してくれますからね〜。

なので、十分に味わうことこそ醍醐味なんです。

 

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