Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

因果の法則と因果からの解放。

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全ては因果によって成り立っている。
ゆーてねー。

なんていうか因果の法則ってもう逆らいようの無い原理原則のように語られてますよね。
これに異論のある人はいないと思います。

でもね。
今日はこの因果の法則の見方を変えて見てみてもらいたいんですよ。

ちょっとこの大正義!因果の法則を疑ってみましょう!
というわけです。

 

さて、
皆さん。
身長は何センチですか?
僕は175センチです。

背が高いわけでもなく、低くも無い。
そんな感じでしょうかねー。

さて、この何センチなのかというやつ。
これってね。
なんていうか仮想の決め事ですよねぇ。

は?と言われそうですが、
この物差しの目盛によって、長さの単位を決めようねー。
そして、このひと目盛を1センチにしようねー。
ってね。共有してる間だけで成り立ってる概念ですよね。

これ、
鬼ごっこしようぜ!
お前が鬼な!って決めてるのとなんら変わりがないわけです。

そんでね。
その鬼ごっこをやっててね。

「はぁぁ、なぜ僕は逃げ続けなきゃならないんだ!でも鬼に捕まったらきっと恐ろしいことになるからこれからも逃げ続けなきゃならないのか、、、しんどいなぁ、、、。」
とか、
「なぜみんな僕から逃げていくんだろう?鬼だからといってみんなと何にも変わらないのに、、、悲しいなぁ。。。」

って、思ってたとしたらどうでしょう。

いやいやいや、これ、ごっこやから。
遊びやから、鬼とかそんなんウソやから!
って話じゃ無いですか。

そういう事にしておいて遊びましょ!
って事ですからねー。
なんもあなたがホントに恐ろしい鬼だからみんな逃げてるわけじゃ無いわけでしてね。

でも、現実としては、鬼は追っかけるし、みんなは逃げるから、
やはり、鬼と逃げる人がいるように見えるわけですね。

だから鬼はいる!って思ったりしがちなんですけどね。
へ?それ理由になりませんやん。
単にそういう事にしようと決めて遊んでるだけですやん!
って事ですので、ねぇ。

長さの単位にしたって、
何かを定規で測ったら、これは10cmだ!とわかるわけで、
それは紛れもない事実のようにうつるんですよね。

鬼が追っかけて、みんなは逃げる。
というルールを法則として受け入れた場合は、現実はそう見えるわけです。
それを受け入れた者同士の間ではね。

この長さの単位を法則として受け入れた者同士の中では、
この単位が現実として受け入れられます。

本来は無色透明、つまりどんな判断の影響も受けていません。
だから、どんな判断にも染まるわけです。

そして、僕らはあらゆる起こることを、因果に絡めて理解しようとするわけです。
因果に絡められたなら、それが現実として受け入れられるわけです。

因果の法則もその法則という色付けをして解釈するからそう言った世界が見えているだけなんですよねー。

全ては幻想。。。

これは受け入れられた現実は幻想だという意味です。
そして、幻想は幻想として起こっているんですよねん。

法律が幻想だから破って良いんだー。っていう話ではありません。
全ては幻想もそれを法則として捉えた途端、それは観念という枠組みに変わってしまいます。
「破っていい」という考えもまた枠組みを採用するから現れる思考になっちゃうわけですね。

捉えられない無色透明のすべては、捉えようとするときに色付けされるんです。

捉えようとせず、ただそこに在るとき、この無色透明の全ては分離なくあらゆる判断をも受け入れられ、受け入れられるがゆえに許されていることを知るんです。

判断、法則の中で遊びながらも、その枠組みに縛られなくていいということ。
法則や枠組みはそもそも、なーんにも縛ってすらいないことを知るんです。

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