Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

共有幻想というホログラムゲーム

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はーい。
おはようございます。
タクさんです。

最近は、モンハンというゲームにはまっているタクさんです。
ちょっとした空いた時間でもひと狩り行っちゃうので、
なかなか仕事が進みません。

皆さんはどんなGLB(ゲーム ライフ バランス)を採用し、
QOL(クオリティ オブ ライフ)向上をされているのでしょうか?

それにしてもいい加減、三文字アルファベット言葉は打ち止めにしてほしいものですね。

増えすぎてついていけません・・・。

 

さて、僕らが見ている世界というのは、まさしく幻想のようなものであり、
僕らは幻想を共有することによって、世界を作り上げているわけです。

よく
「インターネットで世界が変わった!」
とか、
「AIで世界が変わる!」
と言いますが、

ここで言われている世界というのもまた、
共有された幻想の世界のことなんですねー。

なので、インターネットを共有している間でだけ、そのルールが変わるということです。
共有されているものはすべて幻想ですので、実際の世界が変わるということではありません。
僕らはこの幻想を共有された世界(幻想の世界)と真の世界?を同時に生きているんです。

真の世界とかいうと、幻想の世界が嘘のように見えますが、
「嘘とか本当」という概念もまた幻想の世界にだけしかないものですので、
少しややこしいところではあります。
言葉の概念自体が幻想の世界の大きな役割を持つツールになりますので、
この辺が言葉の限界でもあるわけです。
そもそも、世界というもの自体もありませんのでねー。

ちなみに、生死という概念もまた、幻想の中にしかない概念です。

「嘘を嘘と見抜ける人でなければインターネットを使うのは難しい」
なんて言葉が一時期、界隈で流行りましたが、

嘘を嘘と見抜くのが正しいインターネッツの楽しみ方であるならば、
幻想を幻想として見抜くのが正しい世界の楽しみ方なんだともいえますね。

そしてこの幻想世界も、幻想世界以前にある真の世界?も、
どちらも意識です。

意識は分離のないキャンバスのようなものです。
または、ゆったりと流れる大河のようなものだと言っても良いかもしれません。
それは全体であり、働きであり、イノチであり、表現です。
バチっと言い表す言葉はありません。

意識は、個人にあるわけではなく、個別にあるわけでもありません。
意識の中に個人という概念が生じていて、意識の中に個別という概念が生じているんです。

この意識が個人という概念に閉じ込められること。
これが共有幻想の世界の入り口となります。

ゲームでいうとスタートボタンのような感じですね。

そして、この幻想の枠に閉じ込められた個人は窮屈な思いを抱き出すんです。

そして、ゲーム内の様々な制約がさらに個人を閉じ込めるというわけですね。

常識を打ち破れ!
なんて言葉がありますが、ここでいう常識とは、ゲーム内の制約の事なんですねー。

さて、このゲーム。
このゲームにはとっても大事な大前提があります。

最初に意識を個人に閉じ込める事で、このゲームはスタートすると言いましたが、
この閉じ込める個人の器。
この器の大きさや形によって、
ゲームの内容は様変わりします。


この器や大きさや形というのが、自己認識というものになるんです。

しかもこの器は自由に決めて良いとなっていて、
最初に、この器を決めるのですが、
ゲーム内の制約によって変わる場合もあります。
もちろん、制約を一切無視することもできます。

またこの器は、その都度、立ち戻って形を自由に変えられるんですが、
ゲームに没頭すればするほど、この形はゲーム内の制約に影響を受けやすくなるんです。

没頭すればするほど、ゲームはリアリティを帯び、このリアリティは逃れようのない壁として迫ってくるんです。

幻想(ゲーム)を幻想(ゲーム)として見抜くのが正しい世界(ゲーム)の楽しみ方。
だというわけですが、
この見抜きが、没頭するほどに失われることによって、今度は制約に苦を感じるようになり、ゲームが楽しめなくなってくるんです。

逆にいうと、楽しめなくなってくると、今度はゲームをゲームとして見抜く段階が始まっている。

とも言えるかもしれませんね。

 

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