Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自分は分離した個人であるという思い込み

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はじめに

はい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

皆さんも経験があると思いますが、
意見が合う人と出会うのって嬉しくなっちゃいますよね。

「そーだよねー!だよね!だよね!」

ってな感じでね。
同じ世界観を共有できた気になったりしてね。

ぼくらって、同じ世界観を共有できると嬉しく感じちゃったりするんですよね。
それはなぜかといいますと、自分が持つ世界観が共有されると、
その世界観が認められた気になるからであり、
世界観は認められることで、事実になるからでもあるんですよね。

誰にも認められず、誰にも共有されることがない世界観というのは、
単なる個人の幻想になっちゃうんですよね。

ま、共有されようがされなかろうが幻想は幻想なんですけどね。
赤信号、みんなで渡れば怖くない!
じゃないですが、共有されることで、幻想は真実かのように振る舞い出すんです。

 

自分は分離した個人であるという思い込み

そんな僕らなんですが、
人類の殆どが共感している世界観があるんですよ。

それがね。
「自分は分離した個人である。」
という世界観です。

これってほとんどの人と共有されている世界観なんですよね。

そして、共有されることによって、真実化のように振る舞われるわけですので、
僕らの殆どは、
自分は分離した個人であるという思考を信念として持っているわけです。

そしてね。
この信念を持っているからこそ、自分以外の他の人も分離した個人だと思っていますし、
自分以外のあらゆる物事も分離した個別のものであると錯覚するんですよね。

だから、世界はあらゆる物事に分離され、個別に存在しているという信念を僕らは強く握りしめているわけです。

探すと見つからない自分

ただ、ちょっと面白いことに、この個別の自分というのは一体なあに?
ってね。
そう問われると、みんなそれがわからないんですよね。

自分は多面的なものだから言葉では説明できないって思っている反面、
確実に個別で普遍的な自分が存在するとも思っているわけです。

これ、ちょっと変ですよね?
だって、自分はなにか?と聞かれると途端によくわからなくなるんですよ。
にもかかわらず、普遍的な自分が存在するとも思っているんです。

だからね〜。
若者は自分探しの旅に出たがるのかもしれませんね。

ま、若者に限らず、僕らはつねに自分というものを探し求めているわけです。

身体は自分?

「え?自分とはこの身体のことだよ。」
「そして、この身体のなかに心があるんだよ!」

って思っている方も多いと思います。

ハート(心臓)こそが心であるっていう信仰もありますよね。
これってね。
きっと海外から入ってきた考え方なのかもしれませんね。
日本では、心臓よりも五臓六腑、丹田あたりを自分だとみなしていたような気がします。
知らんけど。

まあとにかく、身体の中にある臓器に自分の本質がある。
というふうに感じる信仰があるのかもしれませんね。

でも、これも不思議なことに、心臓の調子が悪かったり、胃の調子が悪かったりすると、途端に自分はそれを維持管理するものに変わってしまいます。

心臓や胃は対象物になってしまうんですよね。

主体者はどこにも存在しない

また自分とは、あらゆるものを維持管理し、コントロールするもの。
主体者である。という考え方もあります。

にもかかわらず、僕らは身体を自由にコントロールしたことなんて無いんですよね。
心臓の鼓動も、胃の消化機能も、食べたものを血肉に変えることも、
誰もコントロールしたことがないんです。

ちょっと心臓の鼓動の速度をあげようか!
腹をすかせてみようか!
血の流れを今日は早めにしておこうか!
なんてことは、できた試しもなく、
また、心についても、
今日は面白おかしく楽しい気分にしよう!
そして、明日の午前中は悲しい気分を感じよう!
なんてコントロールもできないわけです。

なぜなら、自分は身体でも心でもなく、コントロールする主体者なんてものはどこにも存在しないからなんですね。

思考のイメージの中だけに、自分という主体者が存在するというイメージが在るだけなんです。

 

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