
はじめに
どもー!タクさんです。
みなさんご機嫌いかがでしょうか?
「かー!ホンマに。問題が山積みやがな!」
ってな感じで問題と奮闘されている方もおられるかもしれませんねー。
ま、生きてりゃいろんな問題が発生するものです。
「仕事どうしよう…」
「人間関係めんどくさい…」
「健康が気になる…」
「老後どうする…」
みたいな、重さもサイズもバラバラな「問題」たちが、
次から次にやってきたり、さらには積み上がっちゃったりしてねー。
頭の中のにぎやかさ
でね、そういう「問題」って、やっぱり気づいたからにはどうにかしようとするじゃないですか。
で、どうするかというと、
「ああでもない、こうでもない」って、
頭の中で呪文を繰り返すわけです。
しかもそれが、過去の後悔だったり未来の不安だったりすると、
今、目の前にあるものじゃないですから、そもそもどうしようもないものですので、
「なんであんなこと言っちゃったんだろ…」
「このままで本当に大丈夫なのかな…」
なんていうおしゃべりが、ずーっとループしたりするわけです。
そして僕らはこんな勘違いをするんです。
「静かになりたいのに、静かになれない!」
「このおしゃべりが止まらないと、静寂なんて来ないじゃん!」
という勘違いです。
静寂って、ハードルの向こう側にあるもの?
「静寂」とは
今目の前にある問題が解決された“その先”にあるもの。
だから、
「問題を片付け終わったら、ようやく静かになれる」
「この喧騒をなんとかして、やっと静けさにたどり着ける」
そして必死に瞑想して頭の中のおしゃべりをなんとかやり過ごし、
静寂を保とうとしたり、
思考のおしゃべりが始まったら、
「いかんいかん、お喋りを鎮めなければ!」
と抵抗したりするんです。
でも、ここでお話してる静寂ってそういうことじゃないんですよねー。
これだと、何かしらの条件が必要な静寂じゃないですか。
つまり喧騒とは反対の静寂、条件付きの静寂になってしまいます。
でも、本質の静寂とは条件を必要としないんです。
喧騒の中にすでにあるもの
静寂って、喧騒が止んだ後にあるんじゃないんです。
むしろ、どれだけ頭の中でおしゃべりが盛り上がっていようが、
そのおしゃべりはぜーんぶ、静寂の「上」で起きてるんです。
つまり、静寂って「状態」じゃなくて「土台」なんです。
頭の中が大騒ぎしてようが、感情がジェットコースターのように動いてようが、
その全部が起こってるスペースとしての静寂は、ずっとここにある。
僕らの足元、いや、むしろ僕らを含めた全ての今に、
ものごっつい静寂、もうあるんです。
問題はあっていいし、あれこれ考えてもOK。
それでも、その全部ごと、静寂はすでにここにある。
静寂は、「取り戻すもの」でも「頑張って得るもの」でもないんです。