Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「私」がいないという完璧さ

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本来全ては完璧です。
足りないとか、足るとか、そういった概念の入り込む余地のない全てなんですよね。

そして全ては常に表現されています。
この表現こそがイノチそのものなんです。

イノチとは全てが変幻自在の中で表現されているこのすべてのことなんですよねー。

この全ての姿は常に今ここで展開されています。
これこそが、僕らが探し求めているものの正体であり、
隠されもせずすでにあらわになっている「それ」なんですよねー。

全ては常に変化するイノチの躍動ですので、何も捉えることはできず、
捉える必要すらないものなんです。

 

そんな全ての中で、私という不完全さを演出し、
僕らは、何かを掴み取り概念化するというゲームに興じているんです。

掴み取りのゲームの大前提に「私」という概念があります。
この「私」から心が発展し、概念化された心の世界が展開されるんですよねー。

この大前提の私は、大前提の段階では、この全てである「それ」を私とします。
そして、心の中で展開される世界の中の主体とされる体や思考に、この全てである私を代入するんです。

つまり、「私」とは、身体をはじめ、主体と扱っているものに代入された私と、
心が展開される原点にいる「私」のふたつが展開されてるというわけなんですねー。

僕らって、身体の感覚や思考の考えや、はたまた感情を自分だと思っていると同時に、
私という感覚もどこかで感じ取っているんです。

この私感覚が、心の原点にある「私」なんですよね。

「私はいない」と聞くと、
えー!この私感覚がないの???
そーなると、全部なくなるじゃんっ!

って思ったりしますけど、そうじゃなくて、
この全部なくなるの全部こそが「それ」であって、
この「それ」に私をくっつけて、さらにその「私」を個別の身体なり思考なりにくっつけて、
この「全部」以外の外の世界を作り上げている。

というわけだったんですよねー。

さて、
そーなると、どうしてもこの「それ」を掴み取りたくなる!
というのが、人のサガなんですが、
僕らが何かを掴み取ったりしているのは、心の中だけの話になりますので、
「それ」はつかみとることができないんです。

なので、できることといえば、心の大前提にある私感覚に戻ってくることくらいしかできないわけです。

そうすると、
あ、これが全てを俯瞰してみる観照意識なのかな??
なんて思いも出て来たりするもんですが、
この思いもこれまた、何かを掴み取ろうとする働きにしか過ぎないので、
思いっきり無視してやればいいんです。

はたまた、
この私感覚に戻る練習をすればいいんだな!そうか!それが瞑想なのか!
みたいな思いも湧いてくるでしょうが、そんな思いもまた、思いっきりスルーしてやるんです。

ありとあらゆる思いをスルーしておいてあげる。

これは、思いの中にある「足りない」という衝動をそのまんまにしておいてあげる。
ということでもあります。

そして、そのまんまにしておいても大丈夫だったと知ることが、許されてた!という発見にもなるんですけどね。

そうやって私感覚に戻り、あとはほっておきますと、これは単なる感覚であって、私ですらない。
そもそも私以外の何もないという当たり前の真実が明らかになってくれるかもしれません。

思考ではついつい、誰に明らかになったのか?
と思いがちですが、
この誰に?とかいう考え方も単なる前提に過ぎなかったということに、
なんでもないものが気づくんですよね。

まだまだ、僕らが小さい子供の時。
大人たちがわけのわからない言葉を駆使しながら、
難しそうな顔を突き合わせているのを見て、
ちょっと滑稽に思ったことってありませんか?

こんなにいい天気で、広場が広がってるから
難しい顔しながら、呪文を唱えてないで、遊ぼうよ!
ってね。
思ったりしたもんです。

そんなことを思い出しつつ、
あ、自分もいつの間にか、幻想の難しい話の世界に首を突っ込んじゃってたんだなー。
なんてことをね。思い出すかもしれません。

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