Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

【私は在る】あなたは自信ありますか?

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はじめに

はい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

あなたは、神を信じますか〜?
なーんてね。
子供の頃にちょっと流行ったフレーズのような気がします。

ちなみにこの言葉。
僕は子供ながらにちょっと変だなぁって感じたのを覚えています。

神って信じたり信じなかったりするものなの?
そして、信じたら信じたものだけが救われるの?

これって変じゃない??

って感じていたんですよね。

僕らはすべからく太陽の恩恵を受けて生きてるじゃないですか。
そして、この太陽の存在ってね。
信じるとか信じないといった類の話じゃないですよねぇ?

だったら、神だって信じるものじゃないはずじゃん?
ってことですもんね〜。

でね。
話は変わりますが、自信ってあるじゃないですか。
これってね。
自分を信じるということですよね。

これ?
必要あります??

そもそも、自分って信じたり信じなかったりするものなのか?
っていうとね〜。

やっぱり違う気がするんですよね。

 

あなたは自信がありますか?

「あなたは自信がありますか?」
って聞かれたとき。
皆さんはどのように感じるでしょうか?

きっと、即座にあれこれと、
自信となる根拠探しに躍起になると思うんですよね。

「自分はこういう事ができるから自信があると言ってもいいはずだ。」
とか、
「私はこんなにモテるから自信があると言える。」

はたまた、

「私の能力はまだ十分とは言えないから自信があるとは言えないなぁ。」
とか、
「私はそれほど稼げてないから自信はないなぁ。」

とかね。

ちなみに、この根拠って特に決まってないんですよね。

そもそも、根拠と自分ってまるで関係のないものでもあります。

根拠と自信は別の話

まあ、もちろんね。
大前提として何かしらの根拠が示されている場合もありますがね。

そういう場合は自信があるか?というよりは、
これだけの練習をしてきているし、以前はこれくらいの実績があるから、
断言はできないけど、これくらいのことはできるんじゃないかな?
という予測はできます。

これって、自分を信じるとか信じないとはまた、別の話ですもんねぇ。

そして、自分を信じるというのにそもそも根拠って必要ないんですよね。
もし、信じるのに根拠が必要なのであれば、自分はその根拠で出来ているということになります。

でも、自分というのは、根拠じゃありませんからねぇ。

先に、自分という観念があって、その次にいろんな観念をくっつけて遊んでいるわけですから。

自信に根拠は必要ない

自分という観念も、いろんな根拠も、全ては思考の中のパーツの一つです。
ただ、思考の中にあまたあるパーツの中で、
自分という観念は、なんていうか大先輩ですからね。
あらゆる根拠とか比較概念といったものは、自分という観念と比べると、
後輩なんです。

この後輩の枠に、自分を縛り付ける必要なんて無いんですよね。

ま、全部思考じゃんって言っちゃえばそれまでなんですけど、、、。

ま、そんなわけなので、自分をなにかの根拠の中に閉じ込める必要はありません。
つまりは、自分を比較にさらす必要性なんて全然ないということです。

私は在る

あらゆる苦悩ってものも、比較に自分をさらすことで生じるものはとっても多いんですよね〜。
そもそも、そんなの必要ないんです。

自信に根拠なんて必要ないんですよね。
根拠を求めるから、失わなくてもいい自信を失ってしまい変に危機感をあおっちゃうんです。

自分なんて信じるとか信じないといったものじゃありません。
だって在るじゃん。
信じるもクソもないじゃん。
ってことなんです。

ま、ここを突き詰めると、自分という概念もまた、一つの根拠に過ぎず、それで自分を縛る必要がないってことになるわけでして、
私=在る。
つまり、在るしかない。そこには自分なんて概念もまた無い。
ってことになるんですけどね。

もう在るしかない。ということになるんです。

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