Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

それは彼方からやってくる?

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【はじめに】

はい。
おはようございます。
タクさんです。

えっと、視力は1.5です。

毎年やってる健康診断では、視力の最高値が1.5までなので、
視力は1.5なのですが、子供の頃は2.0まで測定できたので、
その時の視力は、2.0でした。

まー、だから僕、視力がいいって思ってたんですよ。
でも、近くのものって子供の頃からあまり見えてなかったんですよねー。
遠くは見えるんですけどね。

だから、みんなそんなものだと思っておりました。

ただ、最近、老眼も始まっておりまして、
相変わらず遠くは見えるんですが、近くはさっぱり見えなくなってきまして、
それで遠視と老眼が入ったメガネをかけてるんですが、
今まで見えなかった近くのものもはっきり見えて嬉しいです!

最近は老眼鏡って言わずに、リーディンググラスとか言うんですね。
なんともオサレですなっ!

 

【分離はない】

さてさて、
僕らが見ている景色ってね。
ちょっと遠くにないと見えませんよね。

目を対象にくっつけると真っ暗になって見えませんもんね。

目の前に手をかざしてみると、ちゃんと手のひらは見えますが、
どんどん近づけていくと、最後は真っ暗になって見えなくなっちゃいますもんねー。

だから、見えるものというのは、目から距離がないと見えないんです。

これって、思考の中の分離も一緒でね。
思考の中の対象を見るには、分離をさせてちょっと距離を作ってやらなきゃ見えないんですよねー。

ま、思考の中での距離なので実際はないんですよ。
でも、考えで何かを掴み取ろうとするならば、架空の距離を保たなきゃ掴み取れないんです。

だから、僕らが掴み取ったもの。頭でわかったこと。
これらは、ぜーんぶ架空の距離を保つために分離されているんです。

これって、つまるところ、分離のなさは掴み取れないということでもあるんですよね。
ワンネスとか、非二元という言葉は、分離はないという意味を含んでおります。
ですが、分離はないはわかったり掴み取ったりすることってできないということですねー。

手を目にくっつけてもそれじゃあ、近すぎて見えない!というのと似てますね。

【それは彼方からやってくる?】

たまに質問で、「それ」は彼方からやってくるものなのですか?
待ってるしか方法はないんですか?

といったようなことを聞かれることがあるんですけどね。

この彼方からやってくるっていうのは、あくまでも自我目線でのモノの見方なんですよね。
ちょっとロマンチックではありますが、彼方からはやってきません。

彼方とはどこか?というと、実は「ここ」なんですよね。
そして、僕らも既に「ここ」におります。

そもそも「ここ」以外のどこかというものは存在しておりません。

彼方に行ってるのは、自我ちゃんの方なんですねー。
ま、行ってるようにみえて、実は行ってないというのが可愛いところでもあるんですがね。

だから、どこかに行ってるという錯覚が消えたなら、もう残るのは「ここ」だけなんです。

なのでね。何処かに行くことをやめる。
つまりは、今、無意識にやっていることをやめてみるということなんですね。
なぜなら、それは錯覚だからです。
その錯覚を置いておくと、残るもの。
それが全てであり究極のリアルなんですねー。

だから、待ってみても多分それはやってきてくれません。
待つというのはステイですのでね。
ステイというのはいわゆる状態の固定ですので、
無意識にやっていることをそのままやり続ける。

つまり、思考を通して物事を掴み取ることをやり続ける。
ということになっちゃいます。

それだと、待てども待てどもやってきてはくれません。

まずは、無意識に思考が働いていることに気づくこと。
そしてそれを、今だけやめてみるということなんです。

ただね。
ここでややこしいのは、思考が働くのを常に止めてなきゃならない!ということじゃありません。
思考ってじつはやっているようですべてが「フリ」ですのでね。
それが見抜かれたのち、また思考の世界も戻ってくるわけです。
ですが、そこには以前のような粘着力はもうないんですねー。

そこではじめて、思考もまたとても便利なツールの一つになってくれるんです。

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