【はじめに】
はーい。
どうも、
バリウムを飲んでくるくると動かされたので、
ちょっと気分が悪いタクさんです。
みなさんは、美味しくバリウムをのめたりするのでしょうか?
僕は何度やっても慣れないです。
まーそんなわけでねー、健康診断に行ってきたわけですけどねー。
朝から水も飲んじゃいけないというのが、結構しんどいですよねー。
さてさて、
「それ」とか「これ」とか言われているもの。
人によってはそれを宇宙と呼んだり、命の源泉と呼んだり、
地平と呼んだり、神と呼んだりしております。
呼び名はいろいろありますが、
そんな呼び名の一つに、大いなる存在。
なーんて呼び方もありますよね。
まーその、大いなる存在。それこそが自分の正体なわけです。
そして、この世には大いなる存在しかありません。
もっというと、あの世なんてものもありません。
何をもってあの世としているのか?
その定義は人それぞれでしょうが、それもまた大いなる存在そのものなんです。
だから、それが全てであり、全てしかないんですよねー。
【死の恐怖】
僕らは、この大いなる存在が自分であることを心の奥底では知っています。
だから、常に僕らはこの大いなる存在と一緒なんです。
ここから離れることはできません。
ですが、この大いなる存在と「自分」という観念がちょっとごちゃごちゃっ!ってなっちゃってるんですよねー。
僕らは大いなる存在が自分であるということを知りながら、個別の「自分」という観念を同時に持っちゃってるんです。
ここが、ごちゃごちゃっってなってる原因だったりするんですよねー。
自分は大いなる存在なんだけど、そんな自分はこの身体であり、他のものと自分は隔絶されているっていうね、
変な矛盾を持ち込んじゃってるんです。
大いなる存在を小さな「自分」という枠に閉じ込めちゃう。という感じですね。
だからね。
本当は無限で広大だったことを知ってるが故に、「自分」のちっぽけさという錯覚に不安を覚えたり、自分が死んだら、あらゆる全てが終わってしまう!
みたいな恐怖を感じていたりするんです。
そして、この観念であるところの「自分」は思考の中にしかないので、
思考が働いてないとその「自分」はいなくなります。
それが怖いので、常に「自分」を保とうとするために、あれこれと思考のストーリーを引き伸ばそうとしちゃったりするわけです。
まるで、カツオやマグロのように、
「止まったら死んでしまう!」
っていう錯覚もしているんですよね。
ただ、お茶目なところは、思考のストーリーがせっせと働いている時って、僕らは止まっていて、あれこれと身体を動かしている時って、思考は止まってたりするんですけどね。
【思考は自分じゃない】
この大いなる存在から離れている。
って感じる時、それは、離れているという思い込みが起こっているだけということです。
それは、ありもしない夢を観ているというのと同じなんですよね。
そして、この思考こそが自分だと思っているから、自分がこの大いなる存在から離れている。
っていうね。
そんな錯覚も起こるんです。
でも、思考は自分じゃありません。
ただ、思考の中で「自分もどき」を演じているだけなんです。
それも含めて、思考はただ思考として働いているだけなんですね。
ここが見破られる時、ドッキリがドッキリとバレる瞬間なんです。
僕らは、思考が自分だと思っているからドッキリにはめられているというわけです。
そして、この大いなる存在と常にともに在る。同体である。
ということを、知識としてじゃ無く、
知識以前の当たり前のこととして、思い出すんです。
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