Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

あるがままへの恐怖

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【はじめに】

ほい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

「自分の機嫌は自分で取る」
この言葉、いいですねー。

自分で自分の機嫌を取るということにしていたら、
もう、周りの環境に振り回されなくてもいいですもんね。

ついつい僕らって、機嫌が悪いことを何かのせいにしたがっちゃいますもんねー。

ちなみに、この言葉は、みやぞんさんの言葉です。

まー、僕らの不安も、実は自分への過度な期待が原因になってることって多いんですよねー。

そもそも、自分へのダメ出しだって、自分への過度な期待があるからこそ起こっちゃったりしますからね。

だから、実は不安っていうのも要因は外部にあるんじゃ無くて自分の中にあったりするもんなんです。

だれだって、自分は「かしこ」だって思いたいものですが、ま、人なんてみんなアホなんですよ。
そして、それこそが僕らがカワイイゆえんでもあるんですよね。

そんな自分のカワイイを発見した時、ダメだと思っていた自分は実は可愛らしかったんだ!という発見があった時、そんな時自分は自分に許されるんですよね。

 

【あるがままへの恐怖】

あるがままに在るってどうしたらいいんですかー?
なーんてことをよく聞かれます。

ですが、あるがままってね。
文字通りあるがままですのでね。
そこに在るためにすることってないんですよね。

また、逆にいうと、あるがままにいないことなんて出来ないということでもあります。

僕らは、あるがままから逃れることって出来ないんです。

いわゆる苦というものも、あるがままから逃れたい!という思いが元になっていたりします。

あるがままは、もう全くの平安そのものなんですが、僕らは平安を求めてはいても、
実は、「あるがまま」を恐れていたりもするわけです。

だから、あるがままに在れないという錯覚がおこったりもしているんですねー。

【恐れの錯覚】

では、なぜ、あるがままを恐れているのか?といいますと、
やっぱりその元には、
「自分はこうであるべきのに、そうはなっていない」
という思いだったりするんです。

そして、そうあれないのは外側の環境のせいである!
という思いもあったりするんですよね。

そういう思いを持ったまま、「あるがまま」に在ろうとすることって怖いですよね。
だって、それは不都合だと思っている思いを受け入れなきゃいけない。
って感じちゃうからです。

あるがままっていうのは、今のままなんでしょ?
それに抵抗したいから、私は平安である「あるがまま」がほしいんだ!

ってねー。
あるがままに抵抗しつつそれを求める。
みたいなね。

そんなねじれが生じちゃうわけです。

このねじれのせいで、あるがままにあるにはどうしたらいいんだろう?
どう頑張っても、思いを受け入れることが難しく、
やっぱり、苦しい思いは出てきちゃうんですけど、、、。

ってなっちゃうわけです。

こうなってくると、ねじれがさらなるねじれを生む。
みたいなことになっちゃうわけですねー。

【何もしないをすることすらできない】

ま、ここでよくいわれることとしては、
「何もしない」ということなんですよね。

何もしなければ、そこにあるのは、「あるがまま」だけだ!
という論法です。

でも、そんなことを言われてしまうと、
どうすれば「何もしない」を「やれる」んだ??

ってねー。
またねじれちゃうわけです。

瞑想か?瞑想をすればいいのか?

ってのもまた、ねじれなんですよね。
瞑想はするものじゃありませんからねー。

そう。僕らは何もしないをやることすらできないんですよねー。

つまりはね。
もうあるがままから逃げることはできないんです。

思考はね。ちゃんと思考の都合でいろんなことを言ってくれます。
これもまた、許されているんです。

自分はダメだー!という思いもね。それはそれであっていいんです。

許さなきゃならないものすらないんです。
だって、もうすでにすべては許されておりますから。

 

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