Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

僕らはなぜイマココを見失ってしまっているのか?

はじめに

はいよーっ!
どうもおはようございます。
タクさんです。

猫に小判だとか、馬の耳に念仏だとか、豚に真珠みたいなことわざってあるじゃないですか。

価値がわからないものに与えても無駄だよ!
みたいな意味合いで使われる言葉なんですけどね。

ここでもこれって人の傲慢だよねー。
むしろ、価値を見誤ってるのは人間の方だよねー。

ってなことはよく書いていると思います。

だって、実際に小判には価値ってありませんもんね。
真珠にしたって念仏にしたって価値なんてありません。

ありもしない価値を勝手につけて、まるで価値があるかのように思い込んでいる。
それが人間なんですもんね。

本当の価値を知っているのはむしろ、猫であり馬であり豚の方なんですよねー。
そして、本来は価値のないものに対して振り回されているのが人間だということなんです。

ということはですよ。

ちょっとした逆転みたいなことがおきまして、
猫に小判や馬に耳に念仏、豚に真珠という言葉は、
まさに、猫や馬や豚のようにちゃんと地に足をつけなさいよ!という戒めの言葉。
これこそが本来の意味なのかもしれませんね。

 

・悟りや目覚めに価値はない。

さて、ちなみにいわゆる悟りだとか目覚め。
これもね。
僕らはそう言ったものに妙な価値をつけてしまっていて、
その価値のせいで見失ってしまっているということにもなるんじゃないかなー?
って思うんです。

きっとね。
悟りや目覚めとかってものすごいものだって思っちゃってるんですよ。
そのせいで見失ってるんですよね。

だから、どうしたらわかるんだろう?
どうしたら納得できるんだろう?

ってなっちゃって、納得できる材料探しをしてしまっているんですよねー。

それがいわゆる探究なんだと思います。

・ありもしない価値に振り回されている

思考ちゃんからみたら悟りも目覚めもイマココも、とてもつまらないものに見えてしまうんです。
だから、どうしてもこのつまらないものを受け入れられないんですよね。

そして、
「私はまだわかっていない」
「私はまだ悟っていない」
「私にはまだエゴが残っている」

といったような、ちょっと的外れな思いに惑わされてしまうんです。

これもね。ありもしない価値に振り回されているからんですよねー。

そう聞くと、
「そうか!間違った価値観を持ってるんだ!」
って思っちゃうかもしれません。

ですが、価値観に正しさも間違いもないんです。
そもそも、この価値観というもの自体が何かしらのルールの中でしか通用しないものなんです。

そして、そのルール自体は、幻想によって作られているものだということなんです。

だって、野球はバットでボールを打つことになっていますが、実際のところボールを打つのに必ずしもバットである必要はありませんもんね。

サッカーにしたって、手でボールを持ってはいけないわけではありません。

ただ、ルール上そういうことにしているだけですもんね。

そう言ったルールの上でしか「価値」というものも存在しないわけでして、価値に正しいも間違いもなく、価値というものも幻想によって作り上げられているものなんです。

この価値という幻想が見抜かれること。それが価値という幻想からの目覚めであり悟りなんです。

そして、この価値やルールはすべて思考ちゃんが作った幻想ですので、価値からの目覚めは思考からの目覚めであり、思考のストーリーからの目覚めでもあるということなんです。

 

 

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