はじめに
はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。
皆さんお元気にお過ごしでしょうか??
僕もねー。
色々とバタバタとしております。
せっかくのセッションも止まっておりましてねー。
来年あたりに、復活するか?または別の形で何かやりたいなーとは思っております。
ちなみに、セッションを受けてくれた方特典のメールで相談、無制限!というのは、ちゃんと今も続いておりますので、今までセッションを受けてくれた方で、なんか相談したい〜!
質問したい〜!という方はご遠慮なくメッセージください。
たまーに、返事が来ないよー!という方もおられるかもしれません。
一週間たっても来ないよーという方は、すいませんが再度ツッコミ入れてください。
どうぞよろしくお願いします。
竹のようにしなやかに〜
ま、というわけでねー。
今日は竹のようにしなやかに〜!といったことをテーマに書いてみたいと思います。
皆さんも耳タコのお話かもしれませんが、
でっかくて太くて丈夫そうな大木ってね。
確かに強くたくましいんですが、やはり最強の大風にはかないません。
強い大木もそれ以上の強い風に吹かれると、ボキっと折れてしまうんです。
そんな大木に比べると、細くてたよりなーい竹ですが、
どんな大風が起ころうと、フニャッとしなって風をいなす。
そしてどんなに曲がろうとも、風が止めばスッと元の真っ直ぐな姿に戻る。
まさに柔よく剛を制す!
このしなやかな強さこそ最強だぜ!
みたいなねー。
そんな話があるじゃないですか。
ちなみにね。
心の強さというのも、やはりこの竹のようなしなやかさと、
スッともとに戻るしたたかさ。
そこにあるんじゃないのかなーって思うんですよね。
心の強さ
僕らはね。
ついつい、心が強くなりたい!
って思ったなら、
何事にも動じないような強さを手に入れよう!ってしちゃいがちだったりします。
また、不動心!みたいなものを手に入れれば、強くなるんじゃないか?
芯の通った考え方。これを持てば、強い心が手に入るんじゃないか?
みたいにねー。
思ったりしがちなんですよね。
だから、それを探し求めたりもしちゃうわけです。
僕もねー。
いわゆる「悟り」とは、どんなことにも動じない、すんごく強い芯を持った心なんだ!
みたいに思っておりました。
かーっつ!みたいな感じでね。
だから、いろんな人の考えを聞いて、そっかー!なるほどなー!とと思いつつも、
でも、ここにちょっと穴があるなぁ。って思うと途端に冷めちゃう。
そしてまた、次の考えを探しにいく。
ってなことを繰り返したりしちゃってましたもんねー。
完璧さを外に求めるから延々を探求を繰り返しちゃうんですよね。
動じないのではなく、動じる必要性が失われる。
悟りというものは、悲しくてもそれに動じず、怒っててもそれに動じず。
いつも精錬で静かで、何があっても涼しーい顔をしている。
みたいなねー。
そんな勘違いをしておりました。
でもねー。
そんなん、まるで虚無人間やん!みたいな反感もあったりしたんですよね。
人生の味を味わえない味覚障害やん!
みたいなね。
でも、それって全然違ったんです。
むしろ、全てをちゃんと味わうことで、ああ!本当はこういう味をしてたのか!!
って知ることだったんですよね。
その本当の味を知ることで、嫌だー!って動じる必要性も失われるんです。
動じないでいようと我慢するのではなく、本当は旨いやん!いい味出してるやん!
ということに気づくということだったんですよね。
風に動じず不動でいるというよりは、風と一緒になることで風を知る。
今に抵抗するのではなく、今とともにある。
ともにあることで、そこにある静寂を知る。
っていうねー。
そんな感じなんです。
喧騒とは抵抗の中にあったんですね。抵抗がなくなると、静寂なんです。
大木のように強固な何かを作るのではなく、竹のようにその全てを受け入れてやりゃーいいんです。
ふにゃふにゃな、自分の弱さを認め受け入れたなら、そのふにゃふにゃは、実は強さであることを知りますし、そもそも抵抗する必要すらありませんのでね。
強さとか弱さも必要なかったんですよね。
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