【白隠禅師】
ほい。
おはようございます。
タクさんです。
白隠禅師っていう、エライ禅僧の言葉でね。
「当所即ち蓮華国、この身即ち仏なり」
って言葉があります。
これねー。
お寺の説教なんかでは、
蓮華国=最良の場所
仏=悟り=幸せ
といったような解釈がされていたりしてね。
今、あなたが置かれている場所が自分にとって最良の場所だと思えたなら、
あなたの心は幸せで満ちるのです。
みたいなね。
そんな教えとして伝えられていたりするんですけどね〜。
いわゆる「置かれた場所で咲きなさい」ってやつですね。
でもボクは、この「当所即ち蓮華国、この身即ち仏なり」っていうのは、
そういった心の持ちようについて説かれた言葉ではない!
って思っているんですよね。
ボクの解釈としては、
「うはっ!マジか!極楽とはここにあって、探し求めていた仏って自分だったのか!」
っていうね。
驚きの言葉だと思っております。
心の持ちようがどのようなものであれ、ココはすでに極楽であり、
その人がどれだけ不機嫌であったとしても、仏そのものだというわけです。
チャラチャラしていて、ウェーイ!って言ってる人だとしても、
もうその姿は仏そのものなんですね。
【当所即ち蓮華国、この身即ち仏なり。】
当所即ち蓮華国、この身即ち仏なり。
この当初とはココ、即ちとはイコール。蓮華国。
これは、ボクが言うところの「コレ」「全て」のことです。
仏教文化を通して表現すると蓮華国だったり極楽だったりするわけですね。
至福と言っても良いと思います。
ココ=全て。ココ=極楽。
ということですね。
この=(イコール)に条件は必要ありません。
慎ましくあらねばならないわけでもなく、信心するということでもないんですよね。
むしろ、この条件を取り去ったときに、
「あ!ココにあったんか!」と知るんです。
そして、この条件というのが自我ちゃんであったり、思考だったり、観念だったりするわけです。
これも言い方の問題だけであって、一種の働きなんです。
【条件を取り去る。思考を取り去る。】
条件を取り去るとか、思考を取り去ると聞くと、
僕らは条件反射的に、「自分」から思考を取り去ろう。
つまりは何も考えないようにしよう!ってやっちゃいがちです。
そんでもって、
よし!瞑想だ!
ってなもんで、
スッキリ熟睡したような瞑想ができたなら、
「よし、ワシは徐々に思考を取り去るのがうまくなってきたぞ!」
ってなったり、
想念まみれの瞑想だったなら、
「ああ、まだワシは思考をうまく取り去れないみたいだ!」
ってなったりするわけですね。
でも、思考を取り去るっていうのはそういうことではないんです。
そもそも、「自分」から思考を取り去る。
なんてことは無理ゲーですからね。
思考という働きとは、どういう働きかというと、
「思考は私である!」と主張する働きであり、
この「私」を中心に据えて、その主体と客体を比較の概念を持って分離させ、
その分離からストーリーが展開する。
という働きなんですよね。
思考=自我ちゃんなんです。
自我ちゃんから自我を取り去るというのはちょっと矛盾しているんです。
風から風を取り去る!っていうのと同じようなことでね。
風車に立ち向かうドンキホーテ的なことしようとしてるんですよね。
ちなみに、自我ちゃんや思考の原動力は抵抗です。
抵抗が大きいほど、自我ちゃんや思考の働きは強くなるんですよね。
ですが、思考や自我ちゃんは、それでいいよ!そこにいていいよ!って認められると抵抗する力を失うんです。
だから、自我ちゃんは取り去るものではなく愛でるものなんですよね。
そして、思考が起こっていても良いんです。それを認め許してあげることで、思考や自我ちゃんは成仏するんです。
成仏とは、「あ!そのまんまのワシが仏やったんや!」という気づきなんです。
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