Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

私だと思っていたモノが全て対象だったとしたら?

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はじめに

ほーい。
おはようございます。

ドラえもんの道具の中で最強なのは、
「もしもボックス」
だと思っているタクさんです。

ぶっちゃけ、もしもボックスさえあれば、もうどうにでもなっちゃうんですよねー。

だって、もしもどこにでも繋がるドアがあったとしたら?
と言っちゃえば、どこでもドアも手に入れられちゃうわけですからねー。

さてさて、
今日は、
もしも、僕らが主体だと思っているモノ。
これがすべて対象だったとすれば?

と言うことをテーマに書いてみたいと思います。

僕らが主体だと思っているモノ。
これが「私」ですよね。

実はこの「私」。
対象なんですよ。

僕らは、「私」をどうにかするために、
あれこれと悩んでいたわけですよねぇ。

でも、「私」が対象だったとしたならば、
もう、世界がひっくり返っちゃうんです。

 

私は○○である。

私とは何?
ってねー。
自分に聞いてみると、きっと様々な答えが返ってくると思います。

私とは、この心である。
私とは、この感情である。
私は、考える。故に私はいる。
そして、
私とはこの身体である。

みたいにねー。

いろんな私が出てくると思うんですよ。

○○は観察できちゃうという不思議

でもね。
心も感情も、考えも身体も。
ぜーんぶ、ちゃんと観察することができるんですよね。

だから、どんなことを考えているのか?を観ることができますし、
どんな感情なのか?どんな心の状態なのか?を知ることもできます。
また、体の感覚。これもまた観ることができるんですよね。

これらを観ることができるからこそ、そして、これらがとても近くにあると感じられるからこそ、ぼくらはそれを「私」であると認識しているんです。

でも、観れるということはつまり、対象なんですよね。

対象として観ているのだとすれば、それはもう「私」ではないはずなんです。

ここで、こんな結論が導き出されます。

「私」は身体である。
でも、
身体は「私」ではない。

っていうねー。

変な矛盾に突き当たるわけですね。

僕らは「私」の正体を知る術を持たない

僕らは、「私」が在ることは知っている。
でも、その「私」がなんなのか?は突き止めることができないんですよね。

なぜなら、その「私」の正体はなんでもないモノだからなんです。

ですが、思考の上では、「私」は何者かでなければなりません。
なので、今、一番身近なモノを「私」としているわけです。

そして、思考は、この「私」を守らなければなりません。

なので、僕らは、この「私」が代入された対象物であるものを、
なんとかしようとするわけです。

つまり、
かしこくなろうとしたり、強い心をつくろうとしたり、
健康な体の状態を維持しなければならないと思ったり、
良い感情であろうとしたりするわけです。

でも、これらは全て対象なので、コントロールはできません。
「私」であるはずなのに、コントロールできないことで僕らは悩むわけですね〜。

気づきと空虚

身体が対象なのだとしたら、
その身体を観ているものが「私」なはずです。

この気づくものが、なんなのか?と振り返ってみると、
ここには、なーんにもない空虚があるだけなんです。

思考はこの空虚を掴み取ることも理解することもできません。
なので、思考の理解ではこの空虚はとても寂しいものであり、
わからないので、恐ろしいものだと判断したりさえします。
そして、この空虚を避けようとするんですけどねー。

この空虚こそ全てのポテンシャルであり、満ち足りた全てなんですね。
そして、今まで気づいていたこの対象もまた、全てと同じなんです。

この時、主体と対象の壁も消え去るんです。

でも、こう言った言葉の表現もまた正確ではありません。
ですが、僕らは全ての対象を観ることができるということだけは、
確かめることができるんです。
ここが思考や知覚の限界なんですよねん♪

 

takuteto.hatenablog.com

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