Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

私は行為者であるという錯覚

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【はじめに】

ほーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

デパートの屋上遊園地がほぼ壊滅状態の今日このごろ、
みなさんいかがお過ごしでしょうか?

もうねー。
ガタガタと揺れるだけの車の乗り物なんて最近の子供は乗らないんでしょうかね〜。

まー、僕は子供がいないので、あまり最近の子供事情はよく知らないんですけどね。

さてさて、
僕らってね。
思考のストーリーに乗っかってると、
このストーリーの主人公になっております。

そしてストーリーの主人公はまさに物語を切り開いていく主役ですからね。
だから僕らは自分のことをまさに行為するものである!
ということに疑いを持っていないんですよね。

ガタガタと動く車の乗り物は、いくらハンドルを切っても何も変わりません。
でも、乗ってる子供は自分が運転している気分を味わえるわけです。

そんな様子って、
まさに、行為するものだと思っている僕らと似ているのかも知れませんね。

 

【行為するものという誤解】

僕らってね。自分は行為者であると当たり前のように信じています。
自分が行為者だからこそ、やることに責任が生じますし、さらには思うことにも責任が生じるわけですね。

そして、あらゆる行為は、自分が思ったからこうした!
ってね。
固く信じているわけですね。

だからこそ、
「しまったー!唐揚げなんか食わなきゃよかったー!」
「ダイエット中なのにー!」

ってな感じでね。
後悔の念が起こったりもするわけです。

【深まる後悔】

ま、多少の後悔ならそれほどの問題は無いんですが、
あまりにも後悔が続いてくると、今度は
この行為者である自分になにか欠陥があるのではないか?
って考えたりもするわけですね。

自分は足りないという思いが高じてくると、
自分の選択や行為者としての素養を疑うことになってきます。
こうなると、しなくても良い後悔がどんどん増えていったりもするんですよね。

なぜなら、自分の選択は間違ってるはずだから、この選択も間違っているのかもしれないと考えるからです。

そして、
唐揚げを食べても後悔。食べなくても後悔。
なんてことにもなったりするわけです。

【僕らは観るものである】

ま、こういった後悔も行為者は自分であるという錯覚から来ているわけです。
でも僕らって、行為者ではなく実際のところは観るものなんですよね。
行為者なんておらんのです。
観るものが行為する夢をみているって感じですかね。
この夢は思考のストーリーとして進行しているわけです。

見ている思考のストーリーの中に仮の自分という主人公が登場するわけです。
ストーリーであるからには主役は不可欠ですからね。

そして、その自分が行為を演じ、それを思考が裁いているって感じですかね。

【行為者としての責任】

ま、こういう事を言うと、
「じゃー、はんざいしてもいいんですかー?」
ってなことを言われるんですけどね。

別にネコが物を盗んでも全く問題はありません。
ネコはそのルールを採用しておりませんからね。
トラが人を殺しても、報復はされるかもしれませんが、
罪を問われることはないでしょう。

ちなみにヒトは、思考のストーリーが作れるという特技を生かして、
共同幻想をつくって群れで生活する生き物ですからね。
そういう意味では、この共同幻想を脅かすと敵だと認識されるわけです。

そんな共同幻想の中にいる限りは、犯罪は裁かれるわけです。

これは良いとか悪いの話じゃないんですね。

あくまでも共同幻想の中で、良いと悪いがあるという話なんです。
サッカーの中に手でボールを触ってはダメというルールが有るのと同様にね。

この話は新しい指針の話ではありません。

指針とは共同幻想のルールのことですからね。

新しい指針はこうだ!正しい指針はこうだ!という話ではなく、
指針という思考に絡め取られて自由を失ってるよ!っていう話なんです。
だから、「私はいないんだから」何をしても良い!
って思おうとするなら、それはますます変な思考に絡め取られるということになるんですよねん♪

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