Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

観念と通念とそれでいーじゃんというお話し

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はじめに

はーい。
どうもおはようございます。

ネタ切れと闘う男!
タクさんです。

皆さんは、どんなネタがお好きでしょうか?

僕は、イクラとハマチが好きです。

ってねー。
ゆーてるわけなんですけどね。

ご存知の方もおられるかも知れませんが、
僕、このブログの前にも、同じようなブログをやってたんですよ。
「お釈迦はんの手のひら」っていうブログなんですけどね。
その時の記事と合わせますとねぇ。
大体、2000記事近くなるんですよね。

そりゃねぇ。
ネタ切れはもう日常チャメシゴト!
ってことになるっちゅうもんですよ。

でもねー。飽きてるのかというとそんなことはありません。
今日もみにきてくれてありがとうございます!という気持ちでいっぱいです。

というわけでねー。

今日もいってみたいと思います。

 

そうは言ってもやっぱりねぇ〜。

まーよく、聞かれることの一つとして、
「私はいない」という言葉を聞くと、その時はとても楽になったりするんですけど、
でもやっぱりまた、日常が戻ってくると、
そうは言っても、やらなきゃならないこととか、毎日の仕事もありますしねー。

結局、どうしたらいいのだろう?
というところに戻ってくるんです。

とかね。

あとは、
私だけが「私はいない」が分かっても、やっぱり周りの人はそうじゃないしねー。
みたいなことをねー。
よく言われるわけですが、
まー、これは「私がいない」間違いをしております。

「私がいない」とは観念じゃありませんのでね。
これを観念にすると、またこの観念を持った上での物語が展開しちゃうわけですからねー。

私がいないとか非二元の話を、観念上の問題解決に使おうとすればするほど、
余計にややこしくなるんですよね。

観念と通念

また、日常が戻ってくるというのもまた「私がいない」間違いになります。
日常というのは、戻ってきません。
常に新しく展開されております。
ただ、いろんなものを、同じ観念を通して見るから戻ってきてるように見えるだけなんですね。
また、観念というのは、完全にイメージなんですが、僕らはそれらを共有しています。
共有されて一般化された観念は通念となります。

通念となった観念は、なかなか見破りにくいので、どうしても日常が戻ってくるといった錯覚をかんじるんですねー。

別にそれならそれでいーじゃん

つまり、何かしらの問題を「私がいない」で解決しようとすればするほど、
余計にハマっちゃうんですよね。

観念上の問題は、観念上で解決しなきゃなりませんからねー。
でも、そもそもが観念上ですので、その問題って存在していないんですけどね。

僕らが、何かを問題としているその裏には、かならず愛がひそんでいます。

カブトムシ愛が強ければ、雑木林を見るとついついカブトムシがいそうな部分を探してしまうようにできていますからね。

そんなカブトムシ愛があるからこそ、カブトムシが見つからないという問題もセットで起こっているんです。

これってね。
別に悪いことじゃありませんよね。
でも、この木にカブトムシがいないことについては、どうしようもありません。
これについてできることがあれば、何かやって見ればいいんです。
たとえば、ハチミツを木に塗ってみるとかね。

でも、できることが見つかりそうにもないのなら、それならそれでいーじゃん。
ってことになるんです。

えー!どうしてもいーじゃん!って思えないぃぃぃ!
というのならね。
それなら、それでいーんです。

 

takuteto.hatenablog.com

 

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