はじめに
ほーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。
みなさん、ご機嫌いかがでしょうか?
まー、あれですよねー。
思い通りにことが運ぶとご機嫌だし、
思い通りにいかないことがあると、ご機嫌はナナメになっちゃいますよねー。
ま、それはそれでいいんですよ。
ちなみに、機嫌がナナメって何なんでしょうねぇ?
機嫌とは棒のような何かなのでしょうか?
でも、そんな棒は見当たらないし、、、。
もしかして、そんなもの無いんじゃないの?
ってことなんですけどね。
というわけで、
今日もご機嫌にいきましょう!
何かを捉える型
さて、
よく聞かれる質問の一つとして、
「自分がいないというのがわからない。どうすれば自分がいないというのがわかるのか?」
という質問です。
まあ、これってねぇ。
何が自分なの??
って話なんですよねー。
僕らはね。
何かが起こるからには原因がある。
という考え方をします。
これは、思考が何かを捉える時の型のようなものなんですけどね。
何かが起こるからには原因があるという捉え方は、因果という型なんです。
この型にはめて僕らは何かを捉えるワケです。
因果というのは型であり存在しない
そして、この型というのは実在しないんですよね。
あくまでも何かを捉える時の一つの様式なんです。
つまり、空想の類(たぐい)なんです。
ですが、思考はこの型を利用して世界観を作ります。
だから思考の中ではこの型は真実ってことになるんですけどねー。
そもそも、正しいも間違いも思考の中だけで適用されるルールの一つなんです。
我思う、故に我在りの錯覚
でね。
自分というのは何なのか?
っていう話なんですけどねー。
原因と結果で物事を掴むというクセは、全てのことには原因があるという型なんですが、
この型が発展して、全てには主体者がいるという型があるんです。
今、カミナリは、雲の中で起こる静電気によって起こるということになっていますが、
昔は、雷神様という神様が起こしている。カミナリの主体者は雷神様ということになっていました。
ギリシアでは、ゼウスさんということになっていました。
そんなふうに、何にでも主体者がいるはずという捉え方の型があるんです。
だから、いろんな感情や思考が起こるからには、そこに自分がいるというふうに捉えるんですよねー。
これが、自分という錯覚が起こるカラクリなんですが、思いは単なる思いでしかないんですよね。
それが単に起こってるだけなんです。
厳密にいうと、起こっている・起こっていないというアイデアも思考の中の捉え方の型のひとつなので、それすらも有るでも無いでもないんですけどね。
僕らは何かしらの世界観を展開させている間だけ、そこに原因と結果や主体と客体というものを作り、ストーリーを展開させているんです。
これもね。あくまで展開なんですよね。一つの働きなんです。
波のようなもので、起こっては消えていくんです。
思考は型が必要
そんなわけですので、思考は、目の前の何でも無いものを空想の型にはめるという働きです。
この型の中に、自分という概念も含まれますので、
「自分がいないというのがわかる」ということは無理なんです。
わかるというのは、何かしらの型にはめるということになりますからねー。
そして、型には自分という概念があるから、自分がいないは、型の中に存在し得ないというわけです。
だから、ただ思考は単にそのように起こっている。
そういう様式美として眺めてりゃいいんですよね。
すると、その思考の様式が自然に見抜かれていきます。
えー!型って存在しないジャーン。単なる様式ジャーン!ってことが見抜かれていくんですよね。
そして、何かの型にわざわざはめなくても、全てはあるじゃん。当たり前だけど。
ってなこともねー。自然と見抜かれるんです。
見抜こう!とすると、型にはめようとしちゃうから見抜かれず、ただ眺めてやれば見抜かれるっていうね。そういうパラドックスがあるんですけどね。
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