Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

【悟り】気楽さで楽になる「私」

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はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

まー、
僕らが個人的に抱えちゃう不安ってね。
やっぱり「私」あってのものなんですよね〜。

この「私」というのは、そもそもは、いないんですが、
同時に僕ら人間は、実際には無いものをあるものとして共有するという能力。
この能力を駆使することによって社会を作っておるわけでございます。

だから、
「私はいないといったものの、やっぱり社会生活はありますからねぇ。」

みたいなね。
そんな思いを抱く方もおられると思うんです。

というわけで、今日はこの辺のことについて書いてみたいと思います。

 

そもそもいない私

そもそもね。
私がいないからこそ僕らは私というものを何かで作ろうとするんですよね。
そして作られた私というモノを成り立たすには、
私以外のものとは違う何かしらの評価が必要になるんです。
外と内を分ける基準ですね。
それが無いと成り立たないんですよねー。
外と内に分けられた仮想分離の中で、
外とはちがう内が必要なので、外との比較で内を作るんです。
これが評価ですね。
この評価が自己評価となり、
そしてこの自己評価により僕らは時に満足し、
そして時に傷つくわけです。

また、私という概念は、
外と内に分けられた時点で常に何かが足りないという宿命を負ってしまってるんですよねー。

足りないという誤解

私を成り立たすには私の評価が必要になるわけですが。
それがお金だったり容姿だったり地位だったり、
個性というものだったりするわけでして、
これはすべてイメージで作り上げられてるんですよねー。
このイメージで作られた「私」はすでに何かが欠けた存在なんですよね。
だから僕らはここで足りないものを埋めたくなるわけです。

人間としての社会能力

なんでそんな「たりない私」をつくってしまうん?
っていいますと、これは人がストーリーや概念を作り上げ、
それを共有することで社会を作るという能力を持っておるからなんですが、
その能力を駆使するために必要だから「私」を作るわけです。
そして、私を作る過程でどうしても分けなきゃならないので、分けた時点で、足りないという概念を持ち込んじゃうんですよね〜。
それもまた、ストーリー上、そういうことになっているというだけの話なんですけどね。
ちなみに、「私」というのはイメージで作られているものでして、このイメージはある種のセンスなんです。
つまり、センスを鍛えれば、より素敵な私を作り上げることもできちゃうんですけどね。
いずれにせよ、すべての「私」は作られたイメージに過ぎないわけです。

気楽さで楽になる「私」

すべての「私」は作られたイメージですので、この「私」の中の足りないものを、
べつに埋めなくても良いわけですが、
僕らは、その足りないという不安から、安心を求めて、埋めようとするんです。
安心するために、足りない私を埋めようとして、
「私はいないんだ。だから安心なんだ!」という概念をなんとか掴もうとしがちなんですけどね。
それは必要ないんです。
私というものを作るイメージ力は、ある種のセンスなので、
センスを鍛えて素敵な私をつくるスキルはあるんですよ。
マインドセットというやつなんですけどね。
その方法論はたくさん世に出回っていますが、そもそも「足りない」という思いに振り回されなくても良いんです。
そして、この思いに振り回されなくても良いという気づきは、おまけとして私を好きに作り替えるセンスもついてくるんですけどね。
このセンスは、私なんぞどうでも良いわいっ!という気づきとセットになっていたりするんですよねー。
このどうでも良いわいっ!という感覚が気楽さなんです。

 

takuteto.hatenablog.com

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