はい。どうもタクさんです。
メソッドってね。
何かを習得するのにはとっても良いんですよ。
習得というのは、習慣化と似ています。
僕らは何かを習得するのに、
最初は体の力の入れ方、考え方、構造。
これらを一つ一つ考えなきゃならないんですが、
僕らは習慣化!という強い武器を持っています。
繰り返すうちに、体が慣れて考えなくても動かせるようになってくるんですよね。
パソコンのブラインドタッチと同じです。
あれも最初は、キーの場所を見ながら、思い出しながらやっていくんですが、
やってるに従って、もう、「Y」はどこだ?と意識しなくても、勝手に指が動くようになってくるんですよね。
だからメソッドというのはとっても便利でして、僕らは何かを知ろうとする時、
それをどのようにメソッド化すれば良いのか?ということを考えるんです。
なので、
わからないことも聞いてわからなければ、わかるためのメソッドを探そうとしちゃうんです。
そして、瞑想や癒しのワークなどがメソッド化しちゃうわけなんですよねー。
ただ、メソッドとして習得したもの。
これは良いものも、そうでないものもありますが、全ては観念です。
習慣化というのは無意識化とも言えるわけでして、
僕らが描く頭の中のストーリーもこの習慣化によってできているわけです。
その仕組みが見抜かれると、世界の見え方も大きく変わり、
とっても気楽なものになってくれるんですが、
その見抜きというのは、メソッド化された世界観を超えていくといったことでもあるので、
なんていうか、メソッドでたどり着こうとしても無理なんですよね。
ということを踏まえた上で、今日はあえてメソッドについて書いてみたいと思います。
今日の目次です。
メソッド。それはレシピ
何かをわかるためのメソッドとは、考え方のレシピのようなものです。
野球が上手になるためのメソッドだとすると、体の動かし方の反復練習のようなものになるんでしょうけどねー。
何かをわかるためのメソッドとなると、僕らはどうしても考え方をレシピ化したもの
して捉えようとしちゃうんですよね。
これが数学なら公式ですね。
考え方もその公式が見つかればわかりやすくなるんです。
この公式というのは、言い換えると掴み取るための枠組みなんですよね。
僕らはこの公式=枠組みを掴もうとするわけですね。
掴めないものを掴むレシピというパラドックス
さて、非二元とか悟りの話では、これは掴めないものとされています。
掴めないからこそ、言葉では表現できない。
言葉を超えたものとされているんです。
これ、言い換えると、目覚めとか悟りというものは、
「掴んでいるものはレシピであるという発見」のことでもあるんですよね。
レシピに実体はない。
そもそもレシピは食べられないじゃないか!
ということの発見なんです。
言葉やレシピ。これらは実体のない偽物であるにもかかわらず、本物のような顔をしているんです。
そして僕らもまた、このレシピをつかみとることで、何かをつかみ取れる。
その何かとは実体のある本物である。
と感じているわけです。
でも掴んでいるものはあくまでもレシピであって本物じゃないんですよね。
そのことがわからない時に、それをわかろうとするレシピはどこにあるのか?
となると、途端にパラドックスにはまり込んでしまうわけです。
掴んでいるものは本物じゃない!ということを掴むためのレシピというちょっとややこしいことになるんですよね。
今掴んでいる問題を観る
じゃあ、どうすれば良いのか?というとできることというのは、
その掴んでいるものを観るくらいしかできることがないんです。
でも観るというのも、よくわからないですよね。
掴んでいるもの。これは実体があるわけではないので、ある種のイメージなんです。
このイメージをイメージだということとして知ること。
それが観るなんですが、観るというとイメージを観る感覚になっちゃうので、
観ようとするとこれまた、ちょっと違う方向にハマっちゃうんですよね〜。
では、どう観れば良いのか?というのは、観るというよりも許すに近いんですよね。
許されることによって初めて、問題を観ることになるんです。
それが、許しと諦めメソッドです。
諦め。これも実は許すと同じこととなります。
ですが、許しと諦めもまたなかなかうまくいかない理由があったりするわけですが、
長くなってきたので、今日はここまでにさせていただきます。
明日この続きをアップしたいと思います。
ではまた明日お会いしましょう。
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