題名が村上春樹さんの本みたいになっちゃいましたので、ちょっとだけ変えました。
おはようございます。
タクさんです。
村上春樹さんの本は僕好きだったんですよね〜。
でも前にも書いたかもしれませんが、主人公の設定が僕と同年代になった途端覚めちゃったんですよ。
ほら、彼の本の主人公ってちょっと哲学的で、ジャズが好きで、
バーでウイスキーのうんちくをたれる。
そしてヒロインはちょっとメンヘラ。
みたいなのが定番じゃないですか。
ものすごく語弊があるかもしれないですけど。
なんかそんな雰囲気がかっこいいわけですが、
それは本の主人公が自分の親世代だから許されるんです。
年代で言えば、今60〜70代くらいの世代ですね。
これが多崎つくるくんが主役の小説では僕と同年代になっちゃったんですよね。
同じ世代で、この雰囲気は、はっきり言ってダサすぎる・・・。
あの雰囲気は、オヤジ世代が若い頃だからこそかっこいいわけです。
なので主人公が同年代だとどうしても話が入ってこないんです。
で、いっかいダサいと思ってしまうと夢から醒めたかのようになっちゃったんですよね。
映画やドラマや小説なんかの設定でどうしても同年代の設定のマッチングがズレると
途端に物語に入り込めなくなるってことありますよね〜。ノレないっていいますか。
逆にこの感覚がバッチリハマると、懐かしさも相まって途端に物語にのめり込んじゃったりするんですけどね。
ま、それはいいとして今日のお題はダンスです。
TOKYO生まれHIPHOP育ちの皆様もどうぞご覧ください。
目次です。
スイスの思い出
僕が大学生の頃だったんですけどね〜。
旅行でスイスの片田舎に行ったんです。
で、チーズフォンデュが美味しいと評判の片田舎のレストランに行ったんですけどね。
そこでは、生バンドのスイス音楽の演奏なんかもあったりしたんですが、
その演奏が興に乗ってくると、お客さんがみんな踊りだすんですよね。
カップルはカップルで。相手が居ない人は椅子を相手に見立てて踊ったりして、とにかく陽気なんです。
日本男児である僕は、あのさっと踊りだす西洋式ダンスステップを心得ていなかったので、
「しまったぁぁーー!ヤバイ!!」と若干戸惑ったんですが、まあ誰も人のダンスなんて観てませんからね。
適当にクソダサいステップを踏んでましたが、それはそれで楽しかったです。
ダンスっていうのは、喜びであって、ここに説明は不要なんですよね。
ダンスは説明不要で説明不能
マイケルのような計算しつくされたダンスは別として、本来ダンスというのは説明は不要ですし説明不能のものです。
ダンスの本質とはもう湧き上がってくるノリにノルというものですからねー。
それは喜びの表現です。
なので、ダンスには意味がないんです。
ダンスは世界の共通言語でもあり、古代より各地で事あるごとにダンスが行われてきたんですよね。
なにかあればダンスするって。
もう人間は可愛すぎですよね。
説明不能のこの感覚こそ本質
この説明不能な感じ。
これこそがね。本質なんです。
つまり「それ」なんです。
なので、言葉では表現できないんですよね。
ダンスは常に動いてますからねぇ。即興ダンスはどうすれば正解なのか?って説明できませんもんね〜。
そんなダンスに意味を求めると、とたんにダンスの喜びは消え失せ、うまく踊らなきゃならない苦行になっちゃいます。
これが本質を見失う感覚とよく似ているんです。
説明不能の中にダイブする。ワカランをワカランままにしておく。
すると湧き上がるノリに溶け込んでいくんです。
それは時に静かな舞いかもしれませんし、熱狂的な舞いになるかもしれません。
それに身を任せることで、舞いと一体化するんです。
この世はダンスセッション
オモロイにノリノリにノレばいいんです。
この世はダンスセッションであり、即興のダンスオーケストラみたいなものです。
すべてが常にダンスのように表現されています。
そしてこの表現と僕らは完全に一体なので、感覚を通してイノチの表現を体験しているわけです。
ここに意味はありません。
意味がないから楽しいんです。
意味がないからこそどんな意味をつけて遊ぶこともできるんです。
キャンパスが真っ白であるからこそ、どんな色付けをすることもできるっ!って感じなんです。
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