はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。
ちょっと業務連絡ですが、3月のタクさんセッションは3月の後半にやろうかと思っています。
実はお話会もやろうと思ってて、3月に会場も押さえていたんですが、
この肺炎騒ぎが始まっちゃったので、こちらは告知の前に中止にすることにしちゃいましたが、また改めて日程を決めてやってみようかなと思っています。
どうぞよろしくお願いします。
さて、
今日は悩みの多い人と少ない人について書いてみたいとおもいます。
ま、悩みって少ない方がいいですよね。
そうなるコツについても書いてみたいと思います。
はい。
では、今日の目次です。
現実は思い込みによる幻想
現実は思い込みによる幻想ですよ〜。
自分はいません。これも幻想なんでスゥ〜。
ってねー。
ゆーたりゆわれたりしてるわけですが、まあこれが簡単にわかりゃ問題はないわけです。
そりゃ、確かに
これって思い込みだよな〜。って気づけるものもたくさんあると思うんです。
でも、なかなか気づきにくい思い込みというものもあるもんですからね。
気づかない思い込みというのは、自分の感覚では思い込みではなく現実となっていて、
自分で気づくことのできた思い込みがもう思いの全てであるといった認識になっちゃうんですよねー。
そうすると、
「思いに気づくことはできるけどやっぱり現実はどうにもならないじゃんっ!」
といったような感覚になっちゃうんです。
思い込みには深さがある
思い込みには、簡単に気づけるような浅いものもあれば、奥深くまで刺さっていて、
なかなか気づくのが難しいものもあるんです。
深く刺さった思い込みは習慣化されていますので、感覚としては思ってすらいないものになっているんですよね。
そんな思いに気づくのは至難のわざなんです。
観念の序列【自分を悩ませるもの】
さて、もちろん僕らの悩みというのもある種の思い込みによって生じているわけなんですけどねー。
深い思い込み、習慣化された思い込みは観念となって心の中にしまいこまれています。
観念とは思いの親玉のようなもので、いろんな思いは観念によって生み出されるわけです。
「自分」という存在もまた、観念の一部なんです。
そして、僕らはこの「自分」という観念が傷つくときに苦しみ悩むわけなんですけどねー。
実は、観念にも序列というものがあるんですよね。
この序列が自分を悩ませる原因になっていたりもするんです。
この観念の序列。
ふつうに考えれば、「自分」という観念が最上位にあるように思うじゃないですか。
でもそうはなっていないんですよね。
そうなっていないから僕らは苦しみ悩むんです。
何に悩まされているのかというと、「自分」よりも上位にある観念によって僕らは苦しみ悩まされているんですよねー。
上位観念が枠組みを作る
観念とはだいたい「〜であるべき」というものでできています。
※詳しくみていくと実はそんなに単純じゃないのですが、ここを深く説明しだすと長くなるので、今回は端折らせていただきます。
この観念はたくさんあって、出てくる観念もその時々の状況によって違ってきます。
ピアノの鍵盤のドとミとソを叩くとCの和音がなるといったようなのと似ていまして、
その時々の条件によって出てくる観念は違うんですよね。
ドとミとソという条件が重なったときに、このCの和音という観念が出てくる。
といった感じですね。
例えば、お葬式の席で、笑ってしまいそうになったときに、
「今は笑うべきではないよ!」といった観念が働く。
といった感じです。
お葬式、笑いそうになる。という条件が重なったときに、
「お葬式では神妙にしておくべき」という観念が出てくるといった感じです。
そして観念にも上位と下位という序列がありまして、上位の方が優先されます。
そして、「自分」より上位にある観念の枠組みに自分が従えないとき、僕らは悩み苦しむんです。
例えば、死にたくないのに、イスラムのために殉死しなきゃいけない。
といった感じですかね。
「自分」よりもイスラムの教えという観念の方が上位にあるんです。
でも「自分」はそのために死にたくはないとき、悩み苦しむわけです。
しっかりと上位の観念に「自分」が当てはまっている時は悩みは生じないんですが、
それがうまくいかなくなった時、僕らは苦しむんです。
悩みは少なくなるにはどうするのか?
では、悩みを少なくするにはどうすればいいのか?と言いますと、
あまり「自分」よりも上位の観念を持たないようにするか、
もしくは、「自分」の観念を他の観念よりも上位にもってくればいいってことになります。
よくね。
自分を過小評価しなくていいよ〜。とか、
まずは自分を可愛がってあげなよ〜。
ってね。
僕がいってるのも、自分を上位に持っていくということでもあるんです。
もちろんこれは、目覚めでも悟りでもありません。
目覚めというのは、観念と観念が生じる仕組みが見抜かれちゃうことですのでね。
見抜くためには、観なきゃ始まらないわけですが、
悩み苦しんでいる間は、観念も思いも動きすぎていて観れないんです。
だから、自分を可愛がるというのは観るための準備運動のようなものなんですけどね。
そもそも、真実でもない観念の下に「自分」を置いて、その「自分」の至らなさに苦しむって、どんなにマゾなのよ!って話なんですよ。
自分はどんな観念を自分よりも上位においているのか?
それを眺めてみるだけでも、いろんな気づきがあると思いますよん♪
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